カール・ラガーフェルドってどんな人?|Karl Lagerfeld

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引用gqjapan.jp

こんにちは。ブランド古着のKLDです。

世界一有名なデザイナーの一人、「カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)」。

ポニーテールにまとめた真っ白な髪の毛、モノトーンで統一されたモードなスタイル、ボディラインのわかるタイトなアウトフィット、フィンガーレスグローブやサングラス…一目で彼だとわかるルックスで知られたカールは、“ファッション・レジェンド”“モードの帝王”などと呼ばれる、唯一無二のファッションデザイナーです。

彼は、自身のブランドを手掛けるだけでなく、世界屈指の有名メゾンでクリエイティブ・ディレクターを務め、それぞれのポジションで結果を残し続けました。

特に「シャネル(CHANEL)」の復活劇は見事で、カールにシャネルのイメージを持っている人も多いかもしれません。

今回は、他のデザイナー達とは一線を画すファッション界の帝王、カール・ラガーフェルドの人生について、ご紹介していきます。

今回は、

  • カール・ラガーフェルドの歩み
  • カール・ラガーフェルドの軸となるもの

という形でお話していきます。

ぜひ、カール・ラガーフェルドについて改めてご覧いただければと思います。

カール・ラガーフェルドの歩み

ファッションへの興味を抱いた幼少期


5歳ごろの写真 引用karl.com

カール・ラガーフェルドは、1938年にドイツ北西部のハンブルグで生まれました。

父は練乳を生産・輸入する食品関連の企業を経営する「オットー・ラガーフェルド」、母はアンダーウェアのセールスに携わっていた「エリザベート・バーマン」。

父の経営する乳製品事業は大成功を収めていて、カールは非常に裕福な家庭で育ってきました。

両親は彼が小さな頃から様々な経験をさせ、幅広い選択肢を与えるようにしていました。
その中で彼が最も興味を抱いていたことは、「絵を描くこと」。しかもその絵は、洋服が中心でした。

5歳の頃、“モード”“ファッション”などという言葉を知る前から、彼は洋服のデザインを考え、紙に落とし込むことを楽しんでいたのです。

もともとは漫画家を志していましたが、ハンブルグで「ディオール(Dior)」のショーを見たことがきっかけで、ファッションの世界に魅了されました。

漫画家の夢を抱きながらも、ファッションへの興味も深くなっていった彼は、自身が洋服を好きなこと(昼寝の前後で同じ洋服を着るのを拒むほど!)、また、ファッションデザイナーの方が漫画家よりも富を手に入れやすいと考えたことから、将来の夢をファッションデザイナーに絞っていきました。

彼は勉強に関しても、非常に優秀でした。
「将来子供たちが国境を越えて活躍できるように」という両親の思いもあり、早いころから語学の習得に励んでいたため、彼が6歳の頃には英語・ドイツ語・フランス語の3か国語を流暢に話せるようになっていたそうです。

彼を語る上で絶対に必要なのが、“母”の存在。

実はカールは基本的に人への関心が薄く、時代遅れだと感じた人や、自分が少しでも害を与えられたと感じたりすると、その関係性をすぐに捨ててしまう…悪い言い方をすると、人間関係に関してかなり希薄な捉え方をしていました。

そんな彼がどうしても捨てきれなかったのが、この母です。

母は息子をまっとうな常識人に育てるべく、甘やかさずに厳しく育てました。
いきすぎた教育だと非難されることもありましたが、息子の立ち居振る舞いや容姿に関しても、かなり辛辣に指摘を続けていたそうです。

例えば、彼は一度も煙草を吸ったことがないそうですが、そのきっかけも母。
まだ小さかったカールに、「煙草を吸うということは、いつも手を人に見せるということ。でもあなたは手が綺麗じゃないから、煙草を吸うなんて考えないほうがいい」と伝えていたそうです。

また、カールが11歳の時に、自分が同性愛者だということに気づき母に相談すると、「そんなの、髪の毛の色が違うのと同じこと。つまり大したことではない」と彼の不安を一蹴してくれる、強い一面もありました。

また、カールに学問ばかりを強いることはなく、挑戦したいことがあれば背中を押してくれる…そんな人でした。

そんな母が中心となって、ファッションに興味を抱いた息子を快くパリに送り出し、目の前のことに集中できるように環境を整えてくれたおかげで、今のカール・ラガーフェルドが生まれたのです。

彼がインタビューで母について語るとき、親しみと敬意を込めて回想していたのは、こういった事実が関係しているに違いありません。

学生時代の活躍とキャリア初期の苦悩


キャリア初期のカール・ラガーフェルド 引用elle.com

ファッションを本格的に学ぶために、カールは14歳でパリへ移住することになります。

そこでパリのオートクチュール組合が経営するファッションスクールに入り、ファッションデザイナーとしての基礎を学んでいきますが、彼の大きな転機は2年後に訪れます。

1954年、国際羊毛事務局主催のファッションコンクールのコート部門で、彼が優勝したのです。

ちなみに同コンクールのドレス部門で優勝したのは「イヴ・サンローラン(Yves Saint-Laurent)」。
彼らは数年後には大きなライバルとなるため忘れられがちですが、実は非常に仲の良い同級生でした。

このコンクールの優勝賞金の30万フラン(当時の日本円換算すると約30万円)を使って、二人は一緒に小旅行をしたほど親密で、互いに尊敬しあっていたそうです。

そしてコンクールで優勝したカールは、その才能を買われ「ピエール・バルマン(Pierre Balmain)」のチームに入ることになり、いよいよ彼のファッション界への扉が大きく開かることになりました。

オートクチュールからプレタポルテまで幅広く手掛ける「バルマン」のアシスタントとして雇われたカールに任された仕事は、「オートクチュールのデザイン画を書き起こす」こと。

しかし、のちに彼は「あれは人間コピー機だった」と嫌悪するほど、当時のオートクチュールの仕事は魅力的ではなかったそうです。

具体的な業務内容は、コレクションで披露したばかりのドレスやテキスタイルを、世界中の顧客に提案するために朝から晩までひたすら書き写すこと。


ジャン・パトゥのアトリエにて 引用elle.com

そのあと「ジャン・パトゥ(Jean Patou)」に活躍の場を移すも、彼の手掛けたコレクションは、大きく空いた胸元やミニスカートといった、今までのオートクチュールの世界観からは外れた挑戦的なラインナップだったため、保守的なファッションプレスからの評判は芳しくありませんでした。

そして彼も同様に、自分のデザインを数人の裕福な女性にあてがうだけのクチュールの世界に嫌気がさし、“今”をファッションに反映させて世界中の女性に楽しんでもらうことを夢見て、早々にクチュールの世界を去ることになりました。

ほどなくして彼はイタリアに渡り、フィレンツェで美術史を学びます。

一度ファッションを離れ、建築や絵画、彫刻的な歴史と考えを学ぶことで、今までと異なる方向から“今”を吸収していきました。彼がクチュールの世界で感じた疑問は、彼を大きく変える引き金となったのです。

世界的メゾンでの活躍と、恋人との出会い

ビーチでのんびり読書を楽しみ、多角的な方面から造形について学んだ彼は、約2年後にパリに戻ってきました。
そして今度はフリーランスで活動を始めたのです。

今でこそファッション業界でもフリーランスという働き方はよくありますが、当時ブランドに属さない彼のやり方は異質なものでした。
ですが、批判する声も最初の数年で消えていきます。彼の本領が発揮されていったのです。

まずはじめの仕事は「クロエ(Chloé)」。
創業者のアイデンティティであるボヘミアンスタイルの美しさを確立し、ポップでチャーミングなクロエのブランドイメージを定着させました。


クロエのアトリエにて 引用elle.com

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クロエでの活躍が認められ、1965年には「フェンディ(FENDI)」のデザイナーに就任。
以降、54年という長期間のクリエーションを共にすることになります。

彼が逝去する数日前まで、フェンディの次シーズンのコレクションの打ち合わせをしていたそうです。

そしてこの頃、彼にインスピレーションを与え続けた恋人の「ジャック・ドゥ・バシェール(Jacques de Bascher)」と出会います。


ジャック・ドゥ・バシェール 引用minato-tokyo.blog.jp

当時19歳だった彼との出会いは、同性愛者が集うパーティーでのこと。
語学堪能、ウィットに富んだジョークを放つ知的で怪しげな彼に、カールはあっという間に恋に落ちていきます。

デザイナーの仕事に追われながらも、刺激的な恋人との時間をしっかり確保するのが、当時の彼のルーティーンだったようです。

そして1983年、彼は「シャネル(CHANEL)」のデザイナーにも就任します。
創業者の「ガブリエル・シャネル(GABRIELLE CHANEL)」亡き後、“田舎の女性政治家くらいしか着ていない”と言われるほど時代に取り残されていたブランドを立て直し、見事に復興していきました。

彼がシャネルをファッションシーンの最前線に戻した要因は、大きく分けて2つあります。

まず1つ目は、「ブランドを体現するミューズも、ディレクターであるカールが選んだこと」。

ブランドのデザインを起こすだけではなく、彼自身がそれを表現する女性に、まだ無名だったモデルの「イネス・ド・ラ・フレサンジュ(INES DE LA FRESSANGE)」を起用したのです。
これは大成功で、イネスはモード史上に残るスーパーモデルへと成長していきました。


イネス・ド・ラ・フレサンジュと。 引用elle.com

2つ目の要因は、「ランウェイコレクションの発表手法」。

当時ブランドのコレクションは、決まった会場でモデルが華やかに歩くものが多かったのですが、彼はパリにある大規模な展覧会場の「グラン・パレ」でのランウェイショーを開催。


グラン・パレでの2006AWコレクション 引用harpersbazaar.com

煙と灰が立ち込める広々とした会場を作り上げたり、さながら水中のようなイメージで統一したりと、いちブランドのファッションショーとは思えない驚きに満ち溢れたショーを披露しました。

自身のブランド立ち上げと様々なコラボレーション


KARL LAGERFELD 2008AWコレクションより 引用vogue.co.jp

1984年、名だたるメゾンを徹底的に盛り上げることで世界的に名を轟かせた“モードの帝王”は、満を持して自身のブランド「カール ラガーフェルド(KARL LAGERFELD)」を立ち上げます。

エネルギッシュなロックテイストを提案するこのブランドは、時代を超えるクラシカルな価値観とコンテンポラリーなムードを併せ持っているのが最大の特徴です。

コレクションのデザインはもちろんのこと、モデル起用やショーの見せ方、展開店舗のバランスなど、重要なことはすべて彼自身が携わり、彼の思いが隅々まで反映されたブランディングとなりましたが、2005年にブランドを「トミーヒルフィガー(TOMMY HILFIGER)」に売却。

フェンディやシャネルのデザイナーを兼任していたこともあり、この時期の彼は想像を絶するほどに多忙を極めていたはずです。
しかし、彼のデザインへの熱は冷めることなく、様々なコラボレーションを展開し始めたのもこの頃。

2004年には、ファストファッションの「H&M」と提携し、「Karl Lagarfeld for H&M」を発売。


「Karl Lagerfeld for H&M」より 引用models.com

今までいわゆる“ハイブランド”を中心に手掛けてきた彼のデザインが手の届く低価格帯で手に入るということで、世界的な注目を浴びます。
もちろん売れ行きも抜群で、発売24時間以内にコレクションはほぼ完売となりました。

ほかにも、「レペット(repetto)」とのコラボレーションでシューズを販売したり、フランスの老舗シルバーウエアブランド「クリストフル(Christofle)」とのコラボでカトラリーをデザインしたり、コスメブランド「シュウ ウエムラ(shu uemura)」と協業してクリスマスコレクションを発売したりと、様々な形で世界に新しい“今”を発信し続けました。

そしてその活躍は、ファッション界に留まるものではありませんでした。
2008年にはTIME誌が選ぶ「もっとも影響力がある100人」に選出されたり、2010年には飲料の「コカコーラ・ライト」のアルミニウム・ボトルをデザインしたり。

彼はファッションの枠を超えて、世界中に大きな影響を与え続けていたのです。

惜しまれながら85歳で逝去


追悼イベント「KARL FOR EVER」の様子 引用harpersbazaar.com

精力的にデザインの仕事を続けた彼ですが、2019年、パリの自宅で姉に見守られながら死去しました。享年85歳でした。

彼はもともと「葬式嫌い」として有名で、“過ぎ去った古いものは捨てていく”“常に新しい今を探し求める”といった彼の信念に基づいて、声をかけられた葬式への参列はほぼすべて断っていたそう。

当然、自分の死後についても、華やかな葬式などは望まず、「母の遺骨と一緒に火葬してほしい」「もし飼い猫が先に死んでしまっていたら、飼い猫の分も混ぜてほしい」と語っていました。

また他にも、「恋人のジャックの遺灰と一緒にするつもり」とも公言していて、自分が死んだときに一緒になれるように、恋人の遺灰を半分持っていることも有名でした。

実際の葬儀も、メディアの参列は許可されず、近親者のみで静かに執り行われました。
また、遺灰は母親と恋人の遺灰と共に散骨され、本人の生前の希望がしっかりと反映されたお別れになったのです。

ファッション界は、偉大すぎる帝王を失いました。
盛大に送り出すことを許されなかった、ブランド関係者やモデル、政界・エンタメ関係者など、多くの著名人から追悼文が発表され、様々な追悼プロジェクトが発表されました。

6月には、お別れ会「KARL FOR EVER」が開催され、1000名を超えるゲストたちがカールのために集合しました。
主催したのは、カールが生前にディレクターを務めたシャネル、フェンディ、カール・ラガーフェルドの3ブランド。

ほかにも、「A TRIBUTE TO KARL LAGERFELD : THE WHITE SHIRTS PROJECT」では、モデルの「ケイト・モス(Kate Moss)」をはじめとする7人のクリエイターが、カールが愛した“白シャツ”をデザイン。

カールのラッキーナンバー「7」にちなみ、77点限定で77,777円で販売し、カールが長年支援していた団体へ寄付されるプロジェクトも行われました。

カール・ラガーフェルドの軸となるもの

ボーイフレンドの存在


左からジャック・ドゥ・バッシェール、カール・ラガーフェルド 引用:25ans.jp

彼の人生を語る上でなくてはならないのが、長年のボーイフレンドであったジャック・ドゥ・バシェール。

インドシナ生まれのジャックは、見た目がダンディで麗しかったことに加え、古典文学に詳しく文化的な素養も持ち合わせた男性でした。

ジャックがまだ19歳の頃、彼らは同性愛者の溜まり場で出会います。

ジャックは男性しか愛せなかったわけではなく、性別には関係なく、自分が気に入った人とその場限りの恋愛を楽しむ、気ままで自由奔放な遊び人でした。

貴族の末裔ゆえの気高さと洗練された美しさを持ちながら、堕落した自由な生活を送るジャックに、カールはすぐにのめりこみましたが、その間柄は彼らを死が分かつまで、プラトニックなものであったそうです。

ジャックは、非常に自由な人でした。

カールの学生時代からの友人であり最大のライバル、イヴ・サンローランとも継続的に肉体関係を持ったり、ナイトクラブを出歩いて一夜限りの逢瀬を楽しんだりと、好き勝手に遊び続けたのです。

ですが、カールがこの行動を制止することはありませんでした。
彼はただ、ジャックの気が向いた時に帰ってくることができる温かな居場所を作り続けていたのです。

そんな自由なジャックの死因はエイズでした。
感染がわかってから生涯を終えるまでの5年間、カールはジャックのためにありとあらゆることを試しましたが、病の刃は止まることなくジャックを蝕みます。

カールは、死が迫ったジャックの病室に毎日寝泊まりし、最期は簡易ベッドを持ち込んでジャックへの愛を伝え続けましたが、その努力もむなしく、38歳の短い生涯を終えることになりました。

「死んでしまったらすべて終わり。葬式には絶対に参列しない」。
そんなポリシーを持つカールでしたが、長年のボーイフレンドの葬儀は自らが執り行い、彼を空へと送り届けたのです。

そしてジャックの死後、カールは体重を増やし、体型も大きく変わっていきました。

2000年代にダイエットするまで、ストイックなカールの体形が戻らなかったことは、ジャックの死と無関係とは考えられないと言われています。

愛猫シュペット


引用:25ans.jp

カールは、「シュペット(choupette)」という名前の猫を飼っています。
シュペットは、もともとはモデルの「バティスト・ジャコビーニ(Baptiste Giaconi)」の飼い猫でした。

かねてから二人は仲が良く、ジャコビーニから「旅行に行く間、猫を預かっていてほしい」との申し出を快諾したものの、その期間中にカールはシュペットの可愛さに骨抜きに。

「どうか譲ってほしい」と頼み込み、半ば強引に自分の家族にしてしまったんだと言います。

彼は、2015年にフランスのテレビ番組で「シュペットには財産がある。私に何かが起きた場合、シュペットが相続人となる」と語っていて、カールが亡くなった後の遺産の相続先として大きな注目を浴びていました。

本当に1匹の猫にすべての財産を送ったのか、真偽は発表されていません。
ですが、カールの元家政婦であった女性がカール亡き後もシュペットの面倒を見ることは決まっていて、シュペットが幸せに過ごす環境は守られているようです。

シュペットは、2014年には化粧品ブランドの「シュウウエムラ」とコラボしてデザインパッケージに使われたこともあり、「世界一高給取りの猫」としても知られています。


シュウウエムラ×シュペットの商品の一部 引用:fashion-press.net

また、シュペットの8歳の誕生日に開設されたインスタグラムには、なんと26万人のフォロワーがいて、今もなお幸せな姿を披露してくれています。

住居へのこだわり


90年代に住んでいたドイツのヴィラ 引用:harpersbazaar.com

カールは、キャリア初期にクチュールの狭い世界に見切りをつけ、既製服のトレンドを作り続けていくために必要な“今”を追い続けることを決めました。

彼はそのポリシーを守るために、ファッションの世界に留まらず、エンタメや時事に加え、文化やアートなど、膨大な量の最新の情報を取り入れ続けることになったのです。

彼の自宅に招かれた友人たちやインタビュアーは皆、彼の持つ情報量に度肝を抜かれます。

それもそのはず、本、雑誌、パンフレット、新聞、音楽、動画…彼のデスクの上には様々な書類が山のように積まれているけれど、彼はどこに何が置いてあるかしっかり把握しているというのです。


自宅のデスク 引用:vogue.co.jp

彼の取り入れた情報が何かのきっかけで化学反応を起こし、ふとした瞬間にデザインに落とし込むことができる…そんな彼の創作活動は、やはり“今”を意識的に取り入れていくことで成り立っていたのかもしれません。

その中でも特に彼が興味を持っていたのが、「家」「インテリア」へのこだわりです。

1970年代にはアールデコ調に飾られたパリのアパートメントに住み、その後2000年頃まではロココ調に彩られた広大な館を中心に、メンフィスデザインのアパートメントやアール・デコ調のヴィラ、モダンな夏用のヴィラなどを行ったり来たり。


アール・デコ調の一室 引用:vogue.co.jp

2000年以降は、1800年代に建てられた広大な一軒家を中心に、多くの家を購入し、自身が思うがまま空間をデザインしていたんだとか。
ただ、「部屋を飾るのが好きなだけ」とも語っていて、購入した後一度も住まずに売りに出した家もあるといいます。

また、家はおもてなしをする場所なのではなく、自分と猫のシュペットがくつろげることができる場所にしたいとも話していて、読書をしたり外を見ながらスケッチしたりと、自分のお気に入りの過ごし方ができるように意識して空間づくりをしていました。

彼は“今”を追い求めるあまり、過去に執着しないことでも有名でした。

こつこつを買い集めたアンティークの家具やアールデコの名品たちも立派なコレクションになりましたが、引っ越すときにはすべて売り払っていたそう。

このように、カールはお気に入りのものでも過去に縛られない生き方をしていました。この彼の軸は、彼をさらなる高みへと押し上げる一因になっていたのかもしれません。

写真家としての活動


引用:karl.com

もともと絵画に興味があった彼が、写真家としての活動を始めたのは、自身のブランドを立ち上げて数年経った1987年のことでした。

「シャネル」のクリエイティブ・ディレクターも兼任していた彼は、シャネルのイメージ・ディレクターから宣伝用写真を何度も提案され、すべて却下。
3度目の却下で、イメージ・ディレクターから「そんなに厳しいのに、なぜ自分で撮影しないんだ」と言われたことがきっかけです。

はじめは携帯のカメラで写真を撮るような、本当の初心者状態からスタート。
それから写真の撮影方法のみならず、現像技法にも研究を重ねた彼は、ニューヨークの都市やベルサイユ宮殿、ローマの吹雪などといった建築物・風景のほか、ファッション写真や著名人のポートレートに至るまで、様々な写真を撮り続けました。


ヴェルサイユ宮殿を撮影した作品 引用:vogue.co.jp

今では、基本的に撮影された写真は「フォトショップ」などの画像加工ソフトで修正されていくのが一般的ですが、カールはそれを嫌っていました。

「ひどい状態のものを加工で綺麗に仕上げても、すべてが同じような画像に見えてしまう、差別化ができない」と言い、目の前にある“美しいと感じるもの”を撮影することにこだわっていたそうです。

カールはファッションの歴史を塗り替えるほどの偉業を成し遂げましたが、彼の写真家としての活動は、ファッション界での活動に比べるとあまり知られていないかもしれません。

ですが、彼の写真は世界各国で写真展が開催されるほど高く評価されていました。

そして写真家の活動によってインスピレーションが刺激され、ファッション界での活躍に影響していたというので、彼を形作る大事な活動だったようです。

ここまで読んでくださった方へ

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

「モードの帝王」と呼ぶに相応しい華々しい経歴と、パワフルな生涯を全うしたカール・ラガーフェルド。

その歩みを知ることで、改めて稀有な人物であることが分かりました。

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