CHLOÉの歴代デザイナーについて|クロエ
こんにちは。ブランド古着買取専門店のKLDです。
「クロエ(CHLOÉ)」は、財布や香水、バッグなどの雑貨類を中心に、バリエーションに富んだアイテムを展開するフランスの名門ファッションブランドです。
もともとは上流階級をターゲットにした高価格帯のオートクチュールを中心に展開していましたが、高品質でファッション感度の高い洋服・雑貨を発表したことで、爆発的にファンが増えていきました。
日本では、はじめにクロエの香水が注目され、そこからファッション雑貨・洋服のファンが増加。
日本中にその名が知られることになりました。
女性らしく華やか、フェミニンでコンパクトなフォルムのアイテムが多く、直営店のほか、セレクトショップや百貨店でも取り扱いがあり、その領域の広さからギフトとしても非常に人気のあるブランドです。
今回はそんなクロエの歴史や、今までデザインの中核を担ってきた歴代のクリエイティブ・デザイナーについてご紹介していきます。
今回は、
- ブランドの歴史
- 歴代デザイナー
という形でお話していきたいと思います。
普段愛用しているブランドも、歴代のデザイナーとブランドの変革を知るとより理解が深まり、愛着が湧くこともあるかと思います。
クロエをお好きな方、気になっている方はぜひご覧ください。
目次
- 1 ブランドの歴史
- 2 歴代デザイナー
- 2.1 ギャビー・アギョン(Gaby Aghion)
- 2.2 カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)
- 2.3 ギ・ポーラン(Guy Paulin)
- 2.4 マルティーヌ・シットボン(Martine Sitbon)
- 2.5 ステラ・マッカートニー(STELLA McCARTNEY)
- 2.6 フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)
- 2.7 パウロ・メリム・アンダーソン(Paulo Melim Andersson)
- 2.8 ハンナ・マクギボン(Hannah MacGibbon)
- 2.9 クレア・ワイト・ケラー(Clare Waight Keller)
- 2.10 ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ(Natacha Ramsay-Levi)
- 2.11 ガブリエラ・ハースト(GABRIELA HEARST)
- 2.12 チェミナ・カマリ(Chemena Kamali)
- 3 ここまで読んでくださった方へ
- 4 KLDの販売ページはこちら
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ブランドの歴史
クロエは、1952年にエジプト生まれのパリジェンヌ、「ギャビー・アギョン(Gaby Aghion)」によって創設されました。
ギャビー・アギョン 引用 fashionpost.jp
奔放な精神と褐色の肌を持つ彼女のビジョンは、「オートクチュールの堅苦しさから女性を解放する」というもの。
ブランド名も自身の名前を使うのではなく、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」から着想を得た、柔らかな印象の“CHLOÉ”を選びました。
この頃、いわゆる高級メゾンは、注文を受けて洋服を作り上げるオートクチュールが主流。
上流階級はそれで十分でしたが、一般層の人々は既製服を着用するしか選択肢がなく、それも裁縫士の技量によって仕上がりはまちまちで、品質が良いとは言い難いものでした。
そんな中、彼女が提案したのが「ラグジュアリー・プレタポルテ」という新たな概念です。
伸縮性などの機能性もある、肌触りの良い高級な生地を使用し、体の線を美しく見せる「おしゃれな既製服」を作り、一般層の人々にもその洋服を届けました。それは、従来の既製服のマイナスイメージを払拭する、新たな挑戦でした。
1956年、彼女はパリでクロエ初のコレクションを発表します。
彼女の新たな挑戦は鮮烈なデビューを飾りましたが、知名度が低く、思ったように売上を伸ばすことはできませんでした。
CHLOÉ1956年SSコレクションより 引用 fashion-headline.com
そこから新進気鋭のデザイナーを次々と起用していくことで、ブランドの知名度を上げていき、世界中にその名を轟かせることになります。
転機は1985年。
世界的な複合大企業である「リシュモングループ(Compagnie Financière Richemont SA)」の傘下に入り、世界中に販路を拡大させていきました。
リシュモングループは、「カルティエ(Cartier)」「ダンヒル(Dunhill)」などの時計・ファッションを展開していて、現在も「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH)」に次ぐ世界第2位の大企業です。
著名なファッションデザイナーを次々に起用していく中で、ラグジュアリー・プレタポルテだけに留まらず、バッグや財布、香水などの雑貨類をはじめアイテム領域を拡大、クロエというブランドの地位を確立させていきました。
2001年にはセカンドラインである「シーバイクロエ(see by CHLOÉ)」を発表。
2021SSシーズンSee By Chloé より 引用 fashion-press.net
シーバイクロエでは、クロエのラグジュアリーな雰囲気を残しつつ、フェミニンで可愛らしくカジュアルなテイストのアイテムを展開し、ブランドのファンを今までよりもさらに広い領域に拡大していくことになります。
2021年には、クロエのサステナビリティが高く評価され、環境・労働者・地域社会への責任の最高水準を満たす企業にのみ与えられる「B Corp」を取得。
非常に厳しい審査基準が設けられた認証の一つで、製品だけではなく、会社全体として持続的に取り組んでいるかが問われるもので、ラグジュアリーメゾンで初めて認められたため、ニュースでも大きく取り上げられました。
創設者であるギャビー・アギョンが生み出した、ロマンティックでフェミニンなクロエ。
デザイナーが次々に交代しても、創設者の意思を受け継ぎながら新たな女性像を生み出し続けるクロエの挑戦は、誰もが心の中に秘める乙女心を、大胆に呼び起こしてくれるブランドに成長していったのです。
歴代デザイナー
歴史で触れたように、クロエは誕生から半世紀以上経過しているにも関わらず、常に成長し続けているラグジュアリーブランドのひとつ。
今回は、クロエの華やかなコレクションを発表してきた、歴代のデザイナーについてご紹介します。
ギャビー・アギョン(Gaby Aghion)
引用 afpbb.com
1952年にクロエを創業した、エジプト出身の女性。
ブランド創設当時は、自身でデザインを手掛けていました。
彼女は1921年にエジプト第2の都市であるアレクサンドリアの貴族として生まれ、18歳の時にはパリに留学、第二次世界大戦中にオートクチュールで賑わうパリに移住します。
24歳で「レイモンド・アギョン(Reimondo Aghion)」と籍を入れ、パリの芸術家と交流を深める過程で、さらにその感性に磨きをかけることになります。
優雅なファッションで包まれたパリで一流の洋服の美しさに触れながら、オートクチュールを楽しめるのは上流階級の一部の女性であることに疑問を感じ、「様々な人々に洗練されたファッションを送りたい」という理念のもと、1952年にブランドを立ち上げました。
1956年、パリの芸術家が集う場所「カフェ・ド・フロール」(Cafe de Flore)で初のコレクションを発表。
エレガントでモダンな既製服を提案し、ファッションの都・パリのアーティストに受け入れられ、華やかなデビューを果たしました。
デビュー後しばらく経ったCHLOÉ1959年のコレクションより 引用 cnn.com
そんな彼女ですが、ブランドのコレクションを発表していく中で、“自分のデザイン・自分のスタイルにこだわり過ぎない”というのが特徴に挙げられます。
彼女自身がデザインをする一方で、新たな才能を見出す目にも優れていたため、自身の理念は大事にしながら、次々と有望なデザイナーを起用し、育成していきます。
そしてそれがブランドの大きな成功に繋がっていったのです。
クリエイティブ・ディレクターを変えながら、ブランドは大きく成長していきました。
そして2013年、彼女はフランス文化への貢献が高く評価され、レジオンドヌール勲章を受勲。
晩年も自身のブランド・ファッションへの情熱は衰えることなく、コレクションのショーにはほとんど欠かさずに出席していたと言います。
そして2014年、93歳の年にパリの自宅で逝去しました。
カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)
引用 front-row.jp
1964年から1983年までと、1992年から1997年までのクリエイティブ・ディレクターを務めた、クロエの歴史に欠かせない人物が、カール・ラガーフェルドです。
彼は、1933年にドイツ北部のハンブルクで生まれた男性デザイナー。
19歳の頃にパリに移り住み、名門「リセ・モンテーニュ(Lycée Montaigne)」に進学。
その後、シャンブル・サンディカル・ド・ラ・オート・クチュールファッションデザイン学校(パリ・クチュール組合学校)に入学し、ファッションを学びます。
在学中、デザインコンテストに参加すると、コート部門でインターナショナル・ウールマーク賞を受賞。
彼はそのデザインの豊かさを買われて、クチュール界で当時最高峰レベルであった「バルマン(Balmain)」のアシスタントに雇われ、ビジネスとしてのファッションを学んでいくことになりました。
そこで3年働いた後、「ジャン・パトゥ(Jean Patou)」に活躍の場を移し、さらにその才能を開花させていきます。
1964年、いよいよクロエと“フリーランスのデザイナー”としての契約を結ぶことになりました。
当初はシーズンのうち数点をデザインするものに留まっていましたが、徐々にその点数を増やしていき、最終的にはブランドを統括するクリエイティブ・ディレクターになります。
左からCHLOÉ1974年SS、75年SSコレクション 引用 wwd.com
この契約は約20年続き、その後一度クロエを離れることになります。
クロエとの契約を始めた翌年にも、「フェンディ(FENDI)」とも契約。
今も続いているフェンディのブランドロゴ(Fを2個連ねたもの)も彼が作り上げたものです。
弱冠27歳という若さでイタリアの老舗ブランドの舵取りを任された彼は、世界中にその名を大きく広めていきます。
当初は短期間だけの契約だったものの、フェンディとのパートナーシップは彼が亡くなるまで、50年以上にわたり続きました。
クロエとの契約期間が終わったあと、「シャネル(CHANEL)」のオートクチュール・既製服・アクセサリーのディレクターに就任します。
当時、創業者である「ココ・シャネル」が1971年に亡くなって以降低迷していたブランドの人気を蘇らせ、当時のコレクションも非常に高い評価を受けました。
それと同時に、自身のブランド「カール・ラガーフェルド」を創業。
1992年にはクロエとの協業が再開し、1997年までの間、ブランドの根幹であるディレクションを任され、既製服の売上を大きく伸ばしていきます。
CHLOÉ1997年SSシーズンより 引用 wwd.com
このように彼は、クロエやフェンディ、シャネル、自社ブランドなどのデザイナーを兼任する時期があり、非常に多忙だったそうです。
クロエとの取り組みが終わってからも、1980年には日本の百貨店「伊勢丹」と契約してデザインしたり、2004年にはスウェーデンのファストファッションメーカー「H&M」とコラボしたりと、彼が85歳で逝去するまで、デザイナーとしてデザイン活動を精力的に行っていました。
彼のプライベートに関しては、同性愛者であったことは非常に有名です。
愛する恋人と恋愛を楽しみ、結婚をせず、子供も持たなかったようです。
また、かつてパリ・クチュール組合学校で机を並べて勉強していた「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」と恋人の取り合いをしたこともあるんだとか。
他に類を見ない、自由奔放でエネルギッシュな彼のデザインは、その私生活からもインスピレーションを受けていたのかもしれません。
ギ・ポーラン(Guy Paulin)
引用 vogue.co.jp
カール・ラガーフェルドがクロエを離れてから、クリエイティブディレクターに就任したのがギ・ポーランです。
彼は就任期間が短かったこともあってかクロエの公式サイトなどには登場していないのですが、長年ディレクターとして活躍していたカールからクロエを受け継ぐという大役をこなしていました。
CHLOÉギ・ポーラン期 引用 nuevemusas
ギ・ポーランは1945年、フランスの東北部出身。
パリのプレタポルテ系ブランド、「DOROTHEE BIS」を展開するジャクリーヌのもとで修業を積んだのち、デザイナーとして独立しました。
また、1977年には自身の名を冠したブランドを立ち上げます。
それと並行してクロエ、マックスマーラ、BYBLOSなどのブランドでデザイナーとして活躍。
有名ブランドでの華々しい経歴がありながらあまり表に出る活動をおこなっていなかったため、デザイナーとしての知名度は高くないといえます。
クロエ在籍中は、ブランドの伝統的な女性らしさを保ちつつ、モダンで洗練された要素を加えることでクロエにフレッシュな印象を与え、ブランドの発展に寄与しました。
80年代に活躍したデザイナーとして評価されていましたが、クロエ退任後、1990年に44歳という若さで逝去しました。
マルティーヌ・シットボン(Martine Sitbon)
ギ・ポーラン退任後、カール・ラガーフェルドがクロエに戻ってくるまでの間を支えたのが、マルティーヌ・シットボン。
彼女は、1951年にフランス人の父とイタリア人の母の間に生まれた、モロッコ出身の女性デザイナーです。
幼少期に家族でパリに移住し、現地のデザイン学校「スチュディオベルソー(Studio Bercot)」でファッションの基礎を学び、1974年に同校を卒業。
卒業後は、ミラノやニューヨーク、香港など、世界各国へ旅行し、様々な国のファッションに触れ合います。
帰国後は、パリで生まれ今もなお世界に多くのファンを持つファッションブランド「ダニエル・エシュテル(DANIEL HECHTER)」でデザイナーのアシスタントに就任し、キャリアをスタートさせました。
1985年には、自身のブランド「マルティーヌ シットボン(Martine_SITBON)」を立ち上げ、コレクションを発表。
彼女が世界各地への旅行で目の当たりにした各国のファッションからインスピレーションを受けて作られたコレクションは、パリで話題を呼びました。
その後、カール・ラガーフェルドの後任としてクロエのクリエイティブ・ディレクターを務めますが、カールの2度目の就任により、彼女の任期は終わりを告げます。
CHLOÉ1991年AWコレクションより 引用 twitter.com
そして2002年にはコンテンポラリーな雰囲気の既製服を展開する「ビブロス(Byblos)」のデザイナーを務めますが、自身のブランドに専念するため、約1年でブランドを離れます。
2004年にはパリコレクションへの参加も見合わせ、彼女のブランドはここで休止されることになりました。
それから約3年間の休養を経て、フランスのファッションブランド「リュ ドゥ マイユ(Rue du Mail)」の創業デザイナーとして復帰。
パリコレからも約10年間遠のいていましたが、2023年のパリコレで、新たなブランド「レヴ(REV)」を立ち上げ、新作を発表する形で戻ってきました。
現在71歳で既に最古参のデザイナーながら、エッジィでインパクトのあるコレクションは、会場で一際目を引きました。
ステラ・マッカートニー(STELLA McCARTNEY)
引用 elle.com
カール・ラガーフェルドが再びクロエに戻ってきた後、クロエの舵取りを任されたのが「ステラ・マッカートニー」。
彼女は1971年生まれたイギリス人女性デザイナーで、ビートルズのメンバーである「ポール・マッカートニー(Paul McCartney)の娘としても有名です。
彼女は、自然豊かなイギリスで幼少期を過ごし、多くの動物たちと触れ合って育ちました。
彼女自身のブランドの特徴でもある、“動物愛護・環境活動”の精神は、幼少期に培った経験によるものが大きいとも言われています。
小さいころからおしゃれが好きで、ファッションの道に進むことを決めた彼女は、著名なデザイナーを輩出している、ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ校を卒業。
卒業後すぐの1998年には、カール・ラガーフェルドの後任として、クロエのクリエイティブ・ディレクターを任されることになりました。
ファッションディレクターとしてのキャリアがほぼない中での大抜擢だったため、そのプレッシャーは計り知れないものだったのではないでしょうか。
そんな中でも、彼女はしっかりと功績を残します。
彼女がデザインを担った4年間のクロエは、今までのクロエのクラシカルな高級感は残しつつ、従来よりも女性らしくフェミニンで、主張の強い雰囲気へと大きく進化することになりました。
CHLOÉ1999年AWコレクションより 引用 firstview.com
また、ファッション界のアカデミー賞ともいわれる「ヴォーグ・ファッション・アンド・ミュージック・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したことで、デザイナーとしての名声をどんどん高めていったのです。
彼女がクロエのディレクションを務めたのは2001年まで。
その後は「グッチ(GUCCI)」とパートナー契約を結び、念願である自身のブランド「ステラ・マッカートニー(Stella McCartney)」を立ち上げます。
環境への影響が大きい「ファッション」という分野の中で、彼女はさらに注目されていきます。
ラグジュアリーブランドのサステナブル活動の先駆けとして、リアルフェザー・レザーの不使用や、環境に配慮した洋服ケアなどの取り組みを率先して行っていきました。
ブランドのデザインの評価が高かったのは言うまでもないことですが、こういった活動も世界中で賛同され、ファンの獲得にも繋がったのです。
こうして彼女は飛躍を続け、ブランドも世界中の女性から爆発的な人気を得ていき、2022年には、英国への多大なる貢献が評価され、大英帝国勲章コマンダーを受賞しました。
彼女と共に働いた人は、口を揃えて「フレンドリーで明るく、太陽のような人だ」と言うそうです。
有名人の娘として生まれた彼女が自分の力で道を切り開くためには、自分の力を驕らず、ユーザーや仲間の目線に立った仕事をすることが必要だったのかもしれません。
フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)
引用 vogue.co.jp
フィービー・ファイロは1973年にイギリス人の両親の元、フランスのパリで生まれた女性デザイナーです。
彼女が生まれた後、家族は全員で両親の母国に戻り、幼少期をロンドンで過ごします。
ファッションに興味を持った彼女が選んだのは、前任のステラ・マッカートニーと同様、ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ校。
卒業後、ちょうどクロエのデザイナーが、カール・ラガーフェルドからステラ・マッカートニーに代わったばかりの頃、同級生で友人だった彼女は、ステラのアシスタントデザイナーとして、ブランドを盛り上げていくことになりました。
そして彼女がクロエから離れた2001年、当時24歳の時に後任のクリエイティブ・ディレクターに就任します。
当時彼女はまだ無名だったのですが、クロエのディレクターとして大きな功績をあげることで、世界的に有名なデザイナーへと成長していきました。
CHLOÉ2006年AWコレクションより 引用 firstview.com
その大きな功績のひとつは「シーバイクロエ(SEE BY CHLOÉ)」の立ち上げ。
クロエがバッグやスモールレザーグッズ、シューズの領域に力を入れて拡大しはじめたことを受け、クロエと比較すると低価格帯の姉妹ブランドを立ち上げたことで、ステラが進めた“可愛らしいキュートなエッセンスのある、デイリー使いしやすい洋服”を、セカンドラインに分離させたのです。
もうひとつは「パディントン(Paddington)」という大きな鍵のモチーフが付いたバッグを生み出したこと。
“パディントン”
横長のフォームとしっかりとしたハンドルのバッグは、クロエのアイコンバッグとして、また彼女自身の名も大きく世界に広めることになりました。
このバッグは日本でも若い女性たちがこぞって購入し、日本での大流行のきっかけの一つにもなりました。
そうして約7年間クロエのトップとして活躍しますが、自身の子育てのため、一度デザイナー業を離れます。
その期間、わずか3シーズン。
その後2008年には「セリーヌ(CELINE)」のクリエイティブ・ディレクターとして、鮮烈なカムバックを果たします。
セリーヌを盛り上げながら、アメリカファッションデザイナー協議会主催の「インターナショナル・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」という、世界一輝いたデザイナーに贈られる名誉ある賞を受賞するなど、その名を世界中に轟かせていました。
しかし2018年、約10年続いたセリーヌとの決別が発表されました。
セリーヌでの大きすぎる功績を残した彼女ですが、その後はデザイナーから一歩退き、2021年まで沈黙を貫きます。
そして彼女自身のブランド「フィービー ファイロ(PHOEBE PHILO)」の立ち上げを発表、2023年に突如インスタグラムを開設したことは記憶に新しいことです。
そして同年には、初となるコレクションを発表。2024年に販売予定になっていますが、長い沈黙の後の突然の発表に、世界中のファンが歓喜しているため、ブランドはすでに爆発的人気。
「買おう!」と思う頃には、既に完売になってしまうかもしれません。
パウロ・メリム・アンダーソン(Paulo Melim Andersson)
妊娠・出産を機に急遽ブランドを離れることになった、輝かしい功績を持つ「フィービー・ファイロ」の後任として突然舞台に立たされたのが、「パウロ・メリム・アンダーソン」。
その任期は、わずか3シーズンに留まります。
彼は、ポルトガルで生まれ、スウェーデンで幼少期を過ごした男性デザイナーです。
小さいころから“物事のデザイン”に興味を持っていた彼は、幼少期にレゴの大会で優勝するなど、奥行きのある立体に対して、類稀なる才能を持っていました。
パリのパンテオン・ソルボンヌ大学では文学を専攻しますが、そのあとファッションに非常に高く関心を持っていることを自覚し、ファッション名門校「セントラル・セント・マーチンズ」と国立大学「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」でファッションの基礎を学びます。
卒業後は、「メゾン マルタン マルジェラ(Maison Martin Margiela)」でフリーランスのデザイナーとしてキャリアをスタートさせながら、同時に、「マルニ(MARNI)」でもデザインのアシスタントを務め、デザイナーとしての経験を着実に積んでいくことになります。
クロエのデザイナーをフィービー・ファイロが務めていた頃、彼女に誘われてクロエに入社。
デザインチームの主要メンバーとして、メゾンの成長に大きく貢献しました。
そして彼女がブランドを離れることが決まってから、後任の候補者(実に30人いたんだそう)の中から、彼が選ばれます。
CHLOÉ2007年AWコレクションより 引用 firstview.com
また、クロエだけではなく、シーバイクロエの新デザイナーも兼任する大役を任されました。
前任のフィービー・ファイロが手掛けて爆発的人気となったフレグランス領域では、彼は「ハンナ・マクギボン(Hannah MacGibbon)」とコラボをして新たな風を取り入れます。
実はこのコラボがきっかけで、彼がブランドを離れた後すぐ、ハンナ・マクギボンがブランドの舵取りをすることになっていくのです。
そして彼は2008年にブランドを離れてから、フランスのファッションブランドである「ザディグ エ ヴォルテール (ZADIG&VOLTAIRE)」のデザインに携わり、彼の持つフェミニンで柔らかなエッセンスを昇華させていきました。
ハンナ・マクギボン(Hannah MacGibbon)
2008年から約3年間ブランドの指揮を執ったのは、イギリス人女性デザイナーのハンナ・マクギボン。
クロエはデザイナーが数年ごとに入れ替わり、常に新たなデザインを展開してきました。
そんな歴代デザイナー達の中で、最も知名度が低いのは彼女かもしれません。
彼女は、歴代デザイナー同様「セントラル・セント・マーチンズ」で、ステラ・マッカートニーやフィービー・ファイロと共にファッションを学び、1996年に同校を卒業。
卒業後は、「バレンティノ(VALENTINO)」のデザインスタッフとしてキャリアをスタートさせますが、数年後には活躍の場をクロエに移し、フィービー・ファイロのアシスタントとして働き始めます。
そして彼女の妊娠・出産のあと、同じデザインチームだったパウロ・メリム・アンダーソンが、そしてその次にはフィービーのアシスタント経験のある彼女が就任したのです。
CHLOÉ2009年AWコレクションより 引用 firstview.com
急に脚光を浴びたというよりも、ブランド内で堅実に内部昇格した形での就任でしたが、前任者達の意思を大きく踏み外すことはありませんでした。
ロマンチックなフリルやドレープのデザイン、ヘルシーな肌見せのアイテムなど、クロエらしさの中にアースカラーを取り入れたコレクションが多くありましたが、彼女への評価は様々でした。
大きく路線を変えることはせず、約3年の間、クリエイティブ・ディレクターを務めてブランドを離れます。
そしてそのあとは、ファッション界で目立った活躍は無いという点も、ほかの歴代デザイナー達との大きな違いではないでしょうか。
クレア・ワイト・ケラー(Clare Waight Keller)
2011年から6年に渡ってクロエを支えたのが、イギリス人の女性デザイナー、クレア・ワイト・ケラー。
幼いころから母親に服を手作りしてもらっていた彼女は、物心ついた時からファッションに関わる仕事をする夢を持っていたそうです。
国立大学「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」のニットウエア専攻で修士を取得し、卒業後すぐに「カルバン・クライン(CALVIN KLEIN)」で自身のキャリアをスタートさせます。
その後、「ラルフ ローレン(RALPH LAUREN)」のパープルレーベルのデザインチームに参加したり、「グッチ(GUCCI)」で全盛期のグッチを支えたトム・フォードのアシスタントを経験したりと、着実に経験を積みます。
そして、伝統ある英国ブランド「プリングル オブ スコットランド(PRINGLE OF SCOTLAND)」で自身初のクリエイティブ・ディレクターに就任します。
プリングルでの約6年間の任期を終える時、デザインチームは口々に「彼女がいなかったら、ニットウェアをこんな風にモダンな印象にすることはできなかった」「クレアがいなくなるのはとても寂しい」とその別れを惜しんだと言います。
そして2011年、クロエは彼女をクリエイティブ・ディレクターに選びます。
同ブランドのデザインチームからの任命が続いたこと、それが世界的に高く評価されることがなかったことから、外に目を向けていたのかもしれません。
CHLOÉ2013年AWコレクションより 引用 firstview.com
彼女はいままでの“陽気で可愛らしい”クロエのイメージはそのままに、少しだけボーイッシュなテイストをプラスし、デイリーユースしやすいようにアレンジしていきました。
爆発的人気を誇るショルダーバッグ「マーシー(Marcie)」や「ドリュー(Drew)」を生み出したことも彼女の功績の一つです。
マーシー 引用 chloe.com
ドリュー 引用 chloe.com
彼女が高く評価された点は、そのデザイン性はもちろん、ブランドとしての収益性もしっかり計算されていたことです。
彼女がブランドを離れる6年後には、クロエ擁する”リシュモングループ”で最も収益性が高いブランドは、彼女が率いるクロエになっていました。
2017年には、「ジバンシィ(GIVENCHY)」の長い歴史の中で女性初のディレクターに就任。
2018年にはメーガン妃のウェディングドレスを手掛けたり、名だたるセレブ達にオートクチュールの仕立てを続けたりと、華やかな道を歩み続けましたが、コロナが流行し始めた2020年にジバンシィからの退任が発表されました。
イギリスの田舎にある自宅で家族との温かな時間を過ごした後、2022年にはロンドンに戻り、今度は「ユニクロ」とのコラボレーションで「ユニクロ:シー(UNIQLO : C)」を誕生させます。
これは、「ジル サンダー(JIL SANDER)」とのパートナーシップ「+J」の再来とも言われ、たくさんのファンがユニクロに殺到しました。
彼女は今も働くママとして、デザイナー業に力を注いでいます。
ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ(Natacha Ramsay-Levi)
クレアの後任に選ばれたのは、当時まだ無名だったナターシャ・ラムゼイ・レヴィ。
クロエのトップが約30年ぶりにフランス人女性デザイナーになったこともあり、当時大きなサプライズニュースになりました。
彼女は、1980年にパリで生まれたフランス人女性デザイナー。
はじめは歴史家への夢を抱き大学で歴史を学んだものの、仲の良い友人たちと布を体に巻き付けた“簡易的なファッションショー”を繰り広げていくうちに、自身の夢がクリエイティブなファッションであることに気づきます。
両親は彼女の夢の変更について、快く送り出してくれたわけではなかったそうですが、彼女の意思を尊重し、改めて専門学校へ入学を許可します。
そして、マルティーヌ・シットボンの卒業校でもあるパリの名門「ステュディオ・ベルソー(Studio Bercot)」に入学。
卒業後は、当時憧れてやまなかった「二コラ・ジェスキエール(Nicholas Ghesquiere)」率いる「バレンシアガ(BALENCIAGA)」でインターンを始めます。
それから「エルメス(HERMES)」・「アクネ ストゥディオズ(ACNE STUDIOS)」を経て、再びニコラの率いる「ルイ・ヴィトン」のデザイン・ディレクターとして加わりました。
ニコラの右腕として、長年の間素晴らしい成績を残していた彼女ですが、自らの手掛けるブランドはありませんでした。
そんな中、クロエからの名指しオファーが届き、それを快諾。強さを感じるエッジの効いたスタイルで、ブランドの新たな女性像を提案し、今もなお人気の丸みのある形のバッグ「テス(Tess)」なども生み出しました。
CHLOÉ2019年AWコレクションより 引用 fashion-press.net
テス 引用 chloe.com
彼女はブランドの長として、パリ以外で初めてコレクションのショーを行ったり、世界中に店舗拡大をしたりと、ブランドの成長に大きく貢献しましたが、2020年にブランドを離れます。
そんな彼女ですが、プライベートになると途端に秘密主義に。
現在は、子供たちと一緒に暮らし、子育て真っ最中。
夫とは破局したものの、夫との間に生まれた息子の他に、夫と前パートナーの間に生まれた娘も一緒に育てているのです。
彼女は「子供との時間が一番大事だ」と語っていて、彼女の底知れぬバイタリティの礎は、プライベートで培われたものなのかもしれません。
ガブリエラ・ハースト(GABRIELA HEARST)
引用 wsj.com
次のクリエイティブ・デザイナーに選ばれたのは、ウルグアイ生まれの女性デザイナー、ガブリエラ・ハースト。
1976年、ウルグアイで羊毛業を営む両親のもとに生まれた彼女は、大自然に囲まれて幼少期を過ごします。
大自然に触れながら育ったことは、その後の彼女のサステナブルな取り組みに大きく影響しています。
ウルグアイ大学を卒業した後、ファッションへの興味を捨てきれず、在学中から服作りのノウハウを独学で学びます。
そしてその後アパレル業界でのキャリアを始め、2015年には自身のブランド「ガブリエラ ハースト(GABRIELA HEARST)」を立ち上げます。
そこでは、父の経営する牧場で生産する上質なウールを使用したアイテムを提案し、パリで受け入れられました。
2020年、彼女がクロエのクリエイティブ・ディレクターに就任。
自分で初めて購入したラグジュアリーブランドのバッグがクロエの「Edith」で、それを15年にわたり使い続けていたこともあり、彼女はクロエにも個人的な思い入れがあったんだとか。
CHLOÉ2021年AWコレクションより 引用 fashion-press.net
そんな彼女は、リサイクルカシミヤやリサイクルジャガードを使用したバッグなどを展開し、サステナブルな取り組みを進めた結果、2021年に“社会や環境に配慮した、公益性の高い企業”として認定される「B Corp」を取得します。
これは、ラグジュアリーブランドとしては初の偉業で、2023年にブランドを離れるまで、彼女の進めたサステナブルな取り組みは、世界中に評価されることになったのです。
チェミナ・カマリ(Chemena Kamali)
2023年、新しくディレクターに指名されたのは、クロエでの経験が長いチェミナ・カマリ。
彼女は1981年生まれのドイツ人デザイナー。
ドイツ西部のデュッセルドルフで生まれ育ったのちにイギリスへ渡り、ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ校を2007年に卒業します。
はじめは、ヴェネツィアをイメージしたイタリアのブランド「アルベルタ・フェレッティ(Alberta Ferretti)」のもとでスタッフとして経験を重ね、その後、クロエでフィービー・ファイロの部下として働きます。
そこではデザイナーが何人か交代していきましたが、彼女はデザインチームのスタッフとしてブランドを支えていき、着実にクロエ内での地位を確立していきます。
その後一度クロエを離れ、イヴ・サンローランウィメンズ部門に活躍の場を移しますが、ガブリエラ・ハーストの後継者としてクロエに指名され、2023年に古巣に復帰。
この指名の背景には、前任者のガブリエラ・ハーストの際、“あえてクロエに関わりのない外部から”を狙って依頼をしましたが、今回は方向転換をして“クロエでの経験が豊富”な人物への依頼をしようという流れがあったようです。
また、彼女自身もクロエのデザイナーに就任する喜びを「20年以上前にクロエの門をくぐって以来、戻ることは自然なこと」と語っており、インタビューでも非常に前向きな姿を見せています。
デビューは2024AWシーズンからの予定で、新しいクロエに世界中の期待が集まっています。
インタビュー引用 elle.com
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
長い歴史の中で女性の持つ可愛らしさと強さを表現してきたブランド、クロエ。
デザイナーの変更は度々おこなわれてきましたが、ブランドの根底にあるものは変わらず、いつの時代も魅力的であることが分かりました。
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