ヴァージル・アブローってどんな人?|Virgil Abloh
引用thegamecollective.com
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
黒人ファッションデザイナーとして初めて、「ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)」のクリエイティブディレクターを務めた、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)。
“ファッション界のニューヒーロー”とも呼ばれる彼は、ヤングセレブを熱狂させた「オフホワイト(Off-White)」の立ち上げデザイナーとしても有名です。
小柄で色白、華奢な体つき、勤勉で神経質そうな雰囲気…歴史あるハイブランドのディレクターを務めた世界的に有名なデザイナー達に、そんなイメージを持っている人も多いかもしれません。
ですが、彼はそういったスターデザイナー達とは大きく異なります。
190センチ近くもある大きな体、リラックスして誰とでもすぐに落ち解けるおおらかな笑顔。
外見的な違いだけではなく、学生時代の経験、デザイナーとしての歩み…あらゆる点で“従来のデザイナー”とは大きく異なるヴァージル・アブロー。
今回は、そんな彼の生い立ちや偉業について、詳しくご紹介していきます。
今回は、
- ヴァージル・アブローの経歴
- ヴァージル・アブローの偉業
という形でお話していきます。
デザイナーのことを知れば、よりブランドに愛着が湧くということもあるかと思います。
ぜひこの機会ヴァージルというデザイナーの魅力を知っていただければ幸いです。
目次
ヴァージル・アブローの歩み
ファッションデザイナーを目指すまで
ヴァージルは、1980年、ガーナからアメリカに移民としてやってきた両親のもとに生まれました。
当時お針子だった母「ユーニス・アブロー(Eunice Abloh)」と、塗料会社を経営していた父「ニー・アブロー(Nee Abloh)」の間に、妹の「エドウィナ・アブロー(Edwina Abloh)」と共に愛されて育ちました。
母の趣味は洋服づくりで、子供たちの洋服はほとんど母のハンドメイドだったというほど。
彼のファッションへの関心の原点は、母の趣味に影響されているものなのかもしれません。
ヴァージルは10代でスケートボードに夢中になり、いわゆる「スケーターファッション」に注目します。
そこからファッションへの関心も加速度的に高まっていきました。
また、彼のライフワークであるDJに傾倒していったのもこの頃。
ほかにも、「マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)」やアメリカのロックバンド「ガンズアンドローゼス(Guns N’ Roses)」といったいわゆる“90年代カルチャー”にも魅了されていて、この時期に培った経験が彼の基盤を作り上げていくことになります。
ヴァージル・アブローの妻のシャノン・サンドバーグ 引用dazeddigital.com
余談ですが、将来的に彼の一生のパートナーとなる「シャノン・サンドバーグ(Shannon Sundberg)」との出会いは高校なんだとか。
高校時代から良い友人関係が続いていたそうです。
ゆくゆくは世界に渡って大きな成功を収めていくヴァージルですが、ファッションデザイナーとしては異例の経歴の持ち主です。
実は彼は、かつてファッションの世界を席巻した「エディ・スリマン(Hedi Slimane)」同様、ファッションスクールを卒業していないのです。
ウィスコンシン大学マディソン校 引用japan.studyabroadfoundation.org
もともと建築家を志していた彼が通ったのは、ウィスコンシン大学マディソン校。
そこで土木工学を学んだ後、イリノイ工科大学で「ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)」によってつくられたカリキュラムで建築学修士号を取得。
学生時代の多くの時間を建築に割いたあと、卒業後は建築関係の会社に就職しましたが、長くは続きませんでした。
小さいころからファッションやアート・カルチャーに高い興味を抱いていた彼は、その領域でのディレクションに関わることを諦められなかったのです。
彼は当時のことを、“自分が最もクリエイティビティを発揮できる分野として建築を選んだ”と話していて、自分がデザインする土壌が建築なのか、洋服なのかの違いだけだったとも語っています。
そして卒業後は、いよいよファッションの世界に身を投じることになります。
カニエ・ウエストとの出会いと、Pyrex Vision 立ち上げ
カニエ・ウェスト 引用gqjapan.jp
ヴァージルを語る上で、絶対に外すことができない人物がいます。それは、世界的人気を誇るラッパー兼音楽プロデューサーの「カニエ・ウェスト(Kanye West)」です。
彼らの出会いは、まだラッパーとしてそこまでの地位を築いていなかった2002年頃。
自身の行く道を“建築”から“ファッション”へと大きな舵取りをしたヴァージルは、Tシャツショップで働いていました。
そこに訪れたカニエ・ウェストが、ヴァージルの才能に目をつけたのです。
それから二人は親交を深めていき、ビジネスでもプライベートでも、良い友人として高め合っていくことになります。
2006年には、彼らは「フェンディ(FENDI)」の6か月間のインターンシップにも参加。
この頃のヴァージルはまだ無名でしたが、カニエは既に複数のグラミー賞を獲得していました。
グラミー賞を受賞しているラッパーを、9時から17時まで、月に500ドルで働かせる…普通であれば考えられないことかもしれませんが、フェンディのデザイナー達もまた、彼らの熱い思いに真摯に向き合っていたのかもしれません。
そういった経験を経て、ヴァージルのセンスに確信を持ったカニエは、自身のツアーに関する物販や衣装・ステージのデザインを、ヴァージルに依頼するようになり、彼らは強い絆で結ばれていくことになります。
また、プライベートでも大きな変化がありました。
2009年、ヴァージルは高校時代からの10年来の恋人「シャノン・サンドバーグ(Shannon Sundberg)」へのプロポーズを成功させ、家族・友人に見守られながら結婚式を執り行います。
彼らは後に二人の子供を授かりますが、ヴァージルは多忙なスケジュールの中でも家族を第一に考え、幸せな家庭を築いていきました。
動画内のモデルが着用していた服(初期のオフホワイトを彷彿とさせるデザイン)引用artnews.com
カニエ・ウェストとタッグを組んでからさらに快進撃のスピードを上げたヴァージルは、2012年には自身初のアートプロジェクトで、オフホワイトの前身とも言われている動画プロジェクトの「パイレックス・ヴィジョン(Pyrex Vision)」をスタート。
パリの超人気セレクトショップ「コレット」(ファンに惜しまれながらも2017年12月20日に閉店)引用wwdjapan.com
「コレット」のオーナー「サラ・アンデルマン(Sarah Andelman」引用wwdjapan.com
“ストリート×アート”を表現したパイレックス・ヴィジョンが手掛けた動画をYouTubeにアップしたところ、パリの老舗セレクトショップ「コレット(COLETTE)」のオーナー「サラ・アンデルマン(Sarah Andelman)」から、映像に写された洋服を購入したいと申し出があったことで、正式にアパレルブランドとして方向性を転換していきます。
その後、実際にコレットでの取り扱いが始まり、カニエ・ウェストをはじめとする様々なセレブが着用。
感度の高いストリート系ファッショニスタを中心に爆発的な人気が出たことで、ヴァージルは一気に人気ファッションデザイナーの仲間入りを果たしました。
サラ・アンデルマンからの熱烈なラブコールから始まったパイレックス・ヴィジョンは、奇しくもワンシーズンのみの展開でブランドは終了しましたが、その成功体験が、翌年オフホワイトを生み出したのです。
Off-White立ち上げ
カニエ・ウェストを陰から支えていたヴァージル。
いよいよ世界が彼を見つけたのは、彼の代表ブランド「Off-White(オフホワイト)」のデビューからです。
丈の長いフーディ、ビッグシルエットのスウェットに、カジュアルなデザインが施されたジーンズ…そんなアイコニックなアイテムを展開したオフホワイトは、“ラグジュアリーなストリートファッション”というコンセプトで、世界中を魅了していきました。
デザインで特に特徴的だったのは、バックスタイルに配されたモノトーンのストライプ。
これは、20世紀に流行したモダニズム建築からインスピレーションを受けたと言われていて、建築の基礎を学んだヴァージルだからこそできるデザインの見せ方だと高い評価を受けました。
2015年以降は、毎シーズンパリのファッションウィークでコレクションを発表していく中で、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」を擁するファッション業界最大手「LVMH」が主催する、活躍する若手デザイナーへ送られる「LVMHプライズ」にも選出。
それから活躍の幅を世界中に広げ、各国の旗艦店の内装も自ら手掛けるなど、建築への造詣が深い彼ならではのアプローチを続けていきました。
2018年にはジミー・チュウとコラボ 引用fashion-press.net
オフホワイトのデビュー以来、彼は「ジミー・チュウ(JIMMY CHOO)」や「ナイキ(NIKE)」などとのコラボレーションを精力的に行い、その知名度を加速度的に上げていきます。
一方で、世界経済の面でマイナスニュースが続き、多くのラグジュアリーブランドは売上不振に苦しんでいました。
既存顧客だけでは成長は見込めない事に気づいたビッグメゾンのトップたちは、今までよりも若い顧客に対して、手の届く価格帯の商品を展開することで、窮地からの脱却を試みます。
ヴェトモン2017-18AW 引用fashion-press.net
ヴェトモンのデザイナー「デムナ・ヴァザリア」引用gqjapan.jp
そこで大きく注目されたのが、ルイ・ヴィトンのデザイナー経験もある「デムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)」によって立ち上げられた「ヴェトモン(VETEMENTS)」です。
ストリートを背景にしたビッグシルエットのアイテムが揃うヴェトモンは、オフホワイトとともに新世代を牽引していくことになりました。
このように、多くのラグジュアリーブランドが、スポーティーなスニーカーやボリュームのあるパーカーなど、今までにないカジュアルなアイテムの展開を始めていくことになりました。
こうしてヴァージルの提案した“ラグジュアリーなストリートファッション”は、ラグジュアリーブランドの独占していた売上の一部を奪い、”ストリート”の新たな地位獲得に尽力し、新たな道を切り開いていく立役者となっていったのです。
Louis Vuittonクリエイティブディレクターに就任
2018年、業界にビッグサプライズが届けられます。
業界最大手のLVMH、しかもその利益の約半分を生み出すと言われている歴史あるビッグメゾン、ルイ・ヴィトンのメンズディレクターに、ヴァージルが指名されたのです。
1854年に創業して以来長い歴史を持つヴィトンのディレクターが、ファッションスクール出身でもない、ラグジュアリーブランドの経験もないアフリカ系アメリカ人デザイナーを指名する…これは、異例ともいえるニュースでした。
客観的に見れば、LVMHアワードに選出されたり、様々な賞を受賞していたことを考えると、彼がヴィトンのディレクターに任命されても不思議ではないはずでしたが、この任命に最も驚いたのは、アブロー本人。
ビッグメゾンのデザイナーになることが、彼の夢だったのです。
ヴァージルを取り巻く環境の変化や、周囲からの重圧も相当なものだったと想像されますが、彼も「はじめは周りを驚かせるような、新しいことを見せなければならないと意気込んでいたけど、自分にできることを愚直に取り組んでいくだけだ」と落ち着いた姿勢を見せていました。
そんな彼の手掛けた最初のコレクションは、ファッション関係者から多くの感動の声が届けられます。
ヴァージルによるファーストコレクション(ルイ・ヴィトン2019SS) 引用vogue.com
会場には全長約200mにも及ぶレインボーカラーのランウェイが設置され、全員がフロントロー(最前列)でみられるように1列のチェアを手配。
椅子の後ろには、ファッションを学ぶ学生やヴィトンで働く仲間たちが並びます。
「長い期間ヴィトンで働いているけど、ショーに参加したのは初めて」と自慢げに話すスタッフも多かったそうです。
ショーが始まると、カニエ・ウェストの「I thought about Killing You」と共に、オールホワイトに包まれた黒人のモデルがずらり。
多くのメゾンが、有色人種のモデルは1人か2人…という状況の中で、彼は17人の黒人モデルを起用したのです。
“多様性”を何か特別なものとしてとらえるのではなく、すぐそばにある当たり前のこととして提示したこのショーは、他のブランドにも大きな影響を与えました。
ショーが無事終了すると、彼は真っ先にカニエ・ウェストのもとに向かい、抱擁を交わしながら涙を流します。
ひたすらに努力を重ねてきたヴァージルと、それを一番近くで見ていたカニエ・ウェスト。
ふたりに万感が押し寄せたのは、想像に難くありません。
ヴァージルは、自身の泣いている後ろ姿をインスタグラムにポストし、「You can do it too(君にもできる)」というコメントを付け加えています。
建築を学び、音楽の世界に浸りながらファッションに出会い、自らのブランドを立ち上げ、ストリートの先鋒としてビッグメゾンに引き抜かれた彼のその一言は、大きな感動を呼びました。
闘病生活の末の若すぎる逝去
大躍進を続けたヴァージルですが、2021年11月28日、41歳という若さでこの世を去ります。
ファッション、カルチャーに大きな影響を与えた彼の突然の訃報は、世界中に悲しみと衝撃を与えました。
実は彼は、ヴィトンのデザイナーに指名された翌年の2019年、心臓の癌である心臓血管肉腫と診断されたものの、そのことを周囲に一切伝えないまま仕事を続けていたのです。
ファッション・アート・文化という様々な領域で重要な仕事を指揮しながら、辛い治療を受け続けていました。
そんな中でも彼のマインドはぶれることはなく、「自分がしていることはすべて、17歳だった自分のためのことだ」とよく語っていたそう。
アートやファッションの力を使いながら平等に道を切り開き、“自分の行動で次世代に新たなインスピレーションを与えていく”ことを信条にしていた彼らしい一言です。
そしてヴァージルについて、その業績に目が行きがちですが、家族に対する献身も素晴らしいものでした。
インスタグラム以外のメディアにも度々家族と一緒の姿がみられた 引用briefly.co.za
多忙を極めるスケジュールの中でも、彼は妻と愛する子供たちと過ごす時間を優先していて、彼のインスタグラムには温かな家族の時間が多く掲載されていました。
そして彼の悲しいニュースも、家族が彼のインスタグラムへ投稿する形で公表されたのです。
温かなSNSから発表された訃報を受けて、多くのファッション・音楽関係者、世界中のセレブリティが追悼の言葉を送りました。
そしてその悲報の2日後、“Virgil Was Here”というタイトルで、ヴィトンのメンズコレクションが発表されます。
バリエーションに富んだ色・柄、遊び心のあるモチーフに溢れたそのコレクションは、今までで最も彼らしいショーでした。
会場には巨大なヴァージルの像が立てられ、ヴィトンのロゴが配された赤い気球の方向に視線を向ける。
そして、生前彼がよく用いた“フライト”のモチーフや、初のコレクションでも使用したレインボーに光るライトが、ショーの表現手法として用いられていました。
フィナーレでは、ヴァージルと共に働いたメンバーたちが登場し、抱き合い、涙を流す姿が。
その後大きな音を立てて花火が打ち上げられ、「Virgil was here」という文字でショーは幕を閉じます。
彼が手掛けた今までのアクションがひとつに繋がっているような、彼がまるでまだそこにいると思わせるようなショーだったといいます。
ヴァージル・アブローの偉業
慈善活動
ヴァージルが“多様性”について訴えかけていたことは上述しましたが、様々な要因によってチャンスを奪われてしまった人々のために、新たな機会を創出することにも尽力していました。
例を挙げると、2017年にパリに移住したばかりで在留資格がなく公式戦を行えなかったサッカーチーム「Melting Passes」のユニフォームのデザインを行い、後にオフホワイトのショーに招いたこと。
2018年にはヴィトンのショーにファッションを学ぶ学生たち3,000人を招き、実際にビッグメゾンの雰囲気を肌で感じさせたこと。
ほかにも、両親の出生国のガーナで経済面で挑戦できない子供たちのためにスケートボードやサーフィンの支援を行ったり、彼の故郷のシカゴで子供の遊び場・公園の修繕資金を提供したりと、様々な国・領域で彼の手は差し伸べられました。
ファッション領域でも彼の温かな取り組みは続けられていました。
2020年には「ポスト・モダン奨学基金」を立ち上げ、「ファーフェッチ(FARFETCH)」「ナイキ」「ルイ・ヴィトン」といったパートナー企業から寄付された資金を基盤に、総額100万ドルを提供。
これは、黒人やアフリカ系アメリカ人、過小評価されている若いクリエイターへの奨学金提供を通じて、ファッション業界の公平性を保つ働きかけです。
オフホワイトでヴァージルの右腕として働いていたサミュエル・ロス 引用prtimes.jp
また、「サミュエル・ロス(Samuel Ross)」をはじめとした若い黒人デザイナーを指導するなど、精力的に活動を続けていました。
特にヴィトンのディレクターに就任してからは、ファッション業界における人種差別にも直面したヴァージル。
ビッグメゾンに根強く残る“白人至上主義”の変革を試みて、広告写真にアフリカの子供を起用したり、チームに黒人デザイナーを積極的に招き入れたりと、彼の行動が変化することはありませんでした。
これらの取り組みを通じて、彼の持つ根底の意識が垣間見えます。
それは、彼が「アートやファッションを手掛けることだけを目的にしていない」ということ。
誰かの少しの助けがあれば、良い教育が受けられる、健康な暮らしができる…そんな人々に対して、自分の仕事を通じて助けていくことが、彼の核になっていたのです。
彼もまた、なんらかの差別の目を浴びせられ、機会を与えられず苦しんだ経験があるのでしょう。
彼が感じた“助けてほしかった”という意識が、一連の慈善活動に関係しているはずです。
DJ・建築家としての一面
「電話をしていないときは、自分のために好きな音楽を大音量で流す」
「仕事が終わったら思い切りDJをする」
「クリエイティビティな力を発揮するのに、ファッションも建築も関係ない」
これらはヴァージルが残した言葉であり、彼のクリエイティブに欠かせないのが、「音楽」「建築」の二つであることの証です。
彼は子供のころからスケートにのめりこみ、ヒップホップを聞いて育ちました。
ビッグシルエットの古着を着て、自分の興味のあることを深堀しながら、両親からの期待に応えるべく勉強も怠りませんでした。
「Flat White」という名義で活動していた時のヴァージル 引用gxomens.com
大学では土木工学と建築を学びつつ「Flat White」という名義でDJをはじめ、そのあとアート・ファッションへと活躍の場を広げた彼は、自身のことを“98%デザイナー”とも表現しています。
自分を形作る残りの2%は、やはりDJだと言うのです。
ヴィトンのコレクション制作中には、ラッパーの「Pop Smoke」「Griselda」を交互に大音量で流し、コレクション当日にも2人をショーに招待。
世界的なラッパーでありプロデューサーでもある「ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)」は彼のことを「創造的な天才」と呼び、アメリカの有名なラッパーの「タイラー・ザ・クリエイター(Tyler, The Creator)」は「ドアを開け、人々を中に導き、次からも入ってこられるように、部屋の鍵を外に投げた」と彼を讃えています。
これらのことからも、ヴァージルが多くのアーティストから愛されていたことがわかります。
2018年3月に行われた個展「“PAY PER VIEW”」引用wwdjapan.com
また、彼は建築家として展覧会を美術館で開いたり、個展でオイル・ペインティングを行ったりと、建築関係の仕事も精力的に活動を行っていました。
2019年にヴィトラとコラボ 引用vitra.com
2019年にIKEAとコラボ 引用wwdjapan.com
ほかにもスイスの家具ブランド「ヴィトラ(VITRA)」や、高級家具メーカーの「カッシーナ(Cassina)」、北欧の世界観を展開する「イケア(IKEA)」などと多くのコラボレーションを作り上げました。
ヴァージルはもともと建築に興味がありましたが、進んだ道はファッション。
では大学で学んだ建築が活かされていないかというと、全くそうではありません。
彼が学んだ建築は、“物事に対して、様々な角度から検証する・異なる考え方を身に着ける”というトレーニングにもなったようです。
ファッションデザイナーとしてだけではなく、DJとしても、建築家としても、様々な顔を持つヴァージル・アブロー。
どれか一つでも欠けていたら、彼の歩みは異なるものになっていたのかもしれません。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
デザイナーとして、ファッション業界や、世界中にある差別意識に一石を投じ、実際の行動によっても多様性へのアクションを推し進めていたヴァージル・アブロー。
そのマインドはもちろんのこと、彼の作り出した素晴らしい作品は、今後も世界中からリスペクトを持って愛されていくのではないでしょうか。
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