アレキサンダー・マックイーンってどんな人?|Alexander McQueen
引用eluniverso.com
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
痛々しいまでに鮮烈で、強烈なフェティッシュさを持つブランド、Alexander McQueen。
創業者であるアレキサンダー・マックイーンは若くして急逝したデザイナーで、その短い生涯の中で人々の心を揺り動かす、数々のコレクションを作ってきました。
今回は、
- デザイナー、アレキサンダー・マックイーンとは?
- アレキサンダー・マックイーンの歩み
- アレキサンダー・マックイーンを形作るもの
という形でお話していきます。
デザイナーのことを深く知ると、よりそのブランドに愛着が湧くということもあるかと思います。
Alexander McQueenというブランドに興味がある方に、ぜひ読んでいただきたい記事です。
また、この記事を書くにあたってマックイーンのドキュメンタリーフィルムである「マックイーン:モードの反逆児」を大幅に参照させていただきました。
目次
デザイナー、アレキサンダー・マックイーンとは?
アレキサンダー・マックイーンは1990年代に自身のブランドで独自の立ち位置を築き、活躍したデザイナーです。
1992年に自身の名を冠した「Alexander McQueen」を設立。
非常に革新的で挑発的なコレクションの数々で注目を集め、時に議論を呼びました。
レイプされた女性や精神病院の病室を模したセットなど、時に目を背けたくなるような過激な表現や、ロボットアームがモデルのドレスにライブペイントを施す革新的なショーなどをおこなった事は有名です。
詳しくは後述しますが、「最悪な気分か浮かれた気分で会場を出て欲しい」という彼の言葉のとおり、見る人の心を強く揺さぶることを標榜し、実現していたブランドだったといえます。
また、1996年から2001年までGivenchy(ジバンシィ)のクリエイティブディレクターにも抜擢され、Givenchyの持つ伝統的な美しさと自身の持ち味である革新的なデザインの融合を試みました。
2010年に40歳の若さで急逝。
彼の死後もAlexander McQueenは存続しており、彼の精神を受け継いだ、時にショッキングで深い美しさを持つ表現を続けています。
アレキサンダー・マックイーンの歩み
ここからは、彼がデザイナーとしてどのような道を歩んできたのかをお話していきます。
生い立ち
アレキサンダー・マックイーンは1969年にロンドンに生まれました。
イーストエンドに位置する労働者階級の家に生まれ、彼の父はタクシー運転手、母は教育に従事していました。
6人兄弟の末っ子として可愛がられて育ち、大人になってからも茶目っ気があり、ひょうきんで周囲から愛された彼の人格を作ったのもこのような環境からかもしれません。
また、幼少期から女性の服装に興味を持っていた彼は、早くから姉たちの服を制作して洋裁を身につけていったようです。
どちらかといえば質素な環境で育った彼は、後年その背景が彼のデザインに影響を与え、彼自身のブランドのアイデンティティを形作る要素であったと語っています。
また、常にハングリーな姿勢で服作りを学び、前に進もうとするスタンスも、こういった幼少期の環境があってのものかもしれません。
学生時代の彼は、どの授業でも洋服の絵を描いており、成績は「まぁまぁ」だったそうですが、家庭科の授業で基本的な縫製の技術を学び、その時にはもうデザイナーになることを夢見ていたそうです。
サヴィル・ロウ、複数のブランドでの経験
Gieves & Hawkes公式サイトより 引用woolmark.jp
16歳になったマックイーンは学校を卒業し、ニューハム大学で仕立てのコースを受講。
そこで基本的な仕立ての技術を学びます。
母親と深夜番組を見ていた彼は、サヴィル・ロウ(ロンドンメイフェア地区、メンズテーラーの中心地)の深刻な人手不足について知ります。
「やってみれば?ノックすればあとは向こうが決める」という母親の勧めもあり、彼はサヴィル・ロウの門を潜ります。
サヴィル・ロウでの最初のキャリアはAnderson & Sheppardでのアシスタントでした。
Anderson & Sheppardは「ソフトテーラリング」スタイルで知られる名門テーラー。
ここではアイルランド出身の師匠の元で、ジャケットの芯地付けから始まり、貪欲に様々な技術を習得していきました。
その後、Gieves & Hawkesでアシスタントとして働き始めます。
Gieves & Hawkesはイギリスの高級テーラーの一つで、クラシックな英国スタイルを基調としたブランドです。
その後、一転して舞台衣装を作る会社で働いた後、90年代の初めにマックイーンはKoji Tatsunoというブランドで働き始めます。
「不良に見えた」とは当時の彼を語るデザイナーの立野浩二の言葉で、なかなか尖った雰囲気を放っていた彼は「Koji Tatsunoの50歳の職人よりフロックコートの裁断がうまく出来る」と主張して立野氏の興味を惹いたそうです。
Koji Tatsuno 1993AWコレクションより 引用kci.or.jp
Koji Tatsunoは、それまでマックイーンが働いていた伝統的なテーラーとは違い、かなり革新的な服作りをおこなっているブランドでした。
レディース服の制作において立体的な構造を志向しており、マックイーンはこういった服の作り方について詳しく知りたがっていたそう。
Alexander McQueenの華やかなドレス作りなどはこのブランドでの経験が下地にあるのかもしれません。
その後、マックイーンは「RED or DEAD」というストリートウェアの縫製などもおこなっていたようです。
このブランドもかなり革新的なテーマでの服作りをおこなっており、「スペース・ベイビー」という月面着陸をテーマにしたコレクションを目にしたマックイーンは衝撃を受けます。
彼はそれまで洋服と関係ない事項からインスピレーションを受けて服作りをおこなうという事を知らず、自由な発想から服作りをおこなうRED or DEADにおいて、彼の表現の幅が広がったことは想像に難くありません。
ROMEO GIGLIでの経験
ロメオ・ジリ氏 引用fashiongraduateitalia.it
その頃、「どうすればデザイナーとして前に進めるのか」と悩んでいたマックイーンは、RED or DEADのデザイナーのジョン・マッキテリックの助言を受け、いきなりイタリアに旅立ちます。
語学力やお金はほぼ持たず、滞在先も決めないままに、チャンスを探してイタリアに行ったのです。
マッキテリック氏曰く、「一週間も経たず尻尾を巻いて帰ってくるんじゃないか?」と思っていたそうなのですが、なんと彼はその一週間でイタリアのビッグネーム、ロメオ・ジリの助手の座を獲得していたのだそう。
ロメオ・ジリが立ち上げた同名のブランド、「ROMEO GIGLI」は、90年代当時、非常に大きな影響力を持っていました。
柔らかなドレープを持たせた美しいデザインに定評があり、ロマンチックで官能的な世界観を表現するブランドとして高い人気を誇っていました。
デザイナーのロメオ・ジリ直下の助手となったマックイーンは、「新しいジャケットを作りたい」というロメオの要望を受け、何着ものジャケットを試行錯誤しながら作っていったそうです。
一着目、二着目…と、試作したジャケットをロメオが「これは違う」と却下していき、三着目のジャケットを制作。
「これもまた違う…」と、ロメオが裏地を外してジャケットの中を見た際に、なんとそこには黒いペンで「Fuck you Romeo(くたばれロメオ)」と書かれていたそう。
これは彼の悪ガキ感のあるエピソードとして語り草になっている話の一つで、この話をするロメオ・ジリはとても嬉しそうに笑っていました。
この頃、とにかくデザイナーであるロメオ・ジリは「新しい形」を追求しており、マックイーンもしっかりとそれに付いていく形で様々なことを吸収していき、またアウトプットしていった時代であるといえます。
セントラル・セント・マーチンズ入学、ブランドの立ち上げ
セントラル・セント・マーチンズ 引用wikipedia.org
ここまで超一流のテーラーやデザイナーの元で経験を積んできたマックイーンでしたが、意外にもその後でセントラル・セント・マーチンズに入学しています。
当初、おそらくマックイーンはこの学校に入学するのではなく、仕事を探す目的で訪れていました。
「服を山ほど抱えてオフィスの前に立っていた。」「“誰を探しているの?”と聞いたら“あなたに会いにきました”と言っていた。」とはセントラル・セント・マーチンズの修士課程創始者であるボビー・ヒルソン氏の言葉です。
おそらく自分で作った服のサンプルを持って仕事を探しにきたマックイーンでしたが、当時のセントラル・セント・マーチンズには彼に適した仕事はありませんでした。
しかし彼の情熱に興味をそそられたボビー・ヒルソン氏は、「うちの講義を受けなさい」とマックイーンに勧めたそうです。
無一文だったマックイーンは、叔母の援助を受けてセントラル・セント・マーチンズに入学することになります。
服飾業界にいた彼の叔母は、マックイーンの才能を見抜いており、自ら援助を申し出たそうです。
セントラル・セント・マーチンズでの日々は、伸び伸びと彼の才能を育てることになりました。
また、同じ志を持つ仲間がいる環境も、マックイーンにとっては初めてのものだったようです。
廊下でモデルウォークをして友達とふざけ合って笑ったり、ゲイバーやレズビアンバーに入り浸って遊び回ったりなど、年相応の少年のように楽しんでいたという同級生の話もあります。
その反面、既に一流の環境でテーラーリングやデザインを学んできたマックイーンにとって、講師よりも自分の方が知識があると感じる場面は少なくなかったようで、「悪夢のような生徒」という講師もいたほどです。
総じて生意気で悪ガキ感満載のマックイーンでしたが、卒業制作で、Alexander McQueenの歴史の始まりとなるコレクションである「Jack the Ripper Stalks His Victims(獲物を狙う切り裂きジャック)」を完成させるのです。
「Jack the Ripper Stalks His Victims」より 引用tumblr.com
「獲物を狙う切り裂きジャック」は非常に鮮烈なコレクションでした。
ツヤのあるサテン生地やきらめくビーズ、透け感のある生地などを組み合わせて飾り、クラシカルなバッスルドレスのようなものや、しっかりしたジャケットの前裾を極端に伸ばした魔女のような装い、わざと伝線させたストッキングなどが登場。
黒いジャケットの裏側にはなんと人毛を使い、真っ赤に染め上げた様子は「血肉みたいだった」との評もあるほど、痛々しいまでに鮮烈なものでした。
後年、展示されたコレクションピース 引用wikipedia.org
このコレクションは、当時のファッション業界の重要人物、イザベラ・ブロウの目に留まりました。
「今まで見た中で一番美しいもの」
コレクションをこう評したイザベラは、このコレクションの全てを買い上げ、その後、長い間マックイーンのサポートをすることになります。
ブランド黎明期
92年に前述の卒業コレクションを発表した後、改めて「Alexander McQueen」というブランドを立ち上げてこのファッションブランドをビジネスとしてやっていこうとマックイーンは決意します。
当時は、実績もお金もスポンサーも何も無く、正にゼロからのスタートとなりましたが、彼の驚くべきアイデアによって、低予算で服を作り、次々とショーをおこないました。
93年秋冬のデビューコレクションは「Taxi Driver(タクシードライバー)」。
マーティン・スコセッシ監督の同名の映画から、主人公のトラヴィスにオマージュを捧げたコレクションでした。
その後、95年春夏コレクション「The Birds」は、タイヤを生地の上に転がして模様をつけたスーツをフィーチャーして、鳥のロードキルについて表現。
95SS「The Birds」より、タイヤ模様のジャケット、ラップで作ったドレス 引用archived.co
このコレクションでは、ラップをモデルの全身に巻いて背中にジップだけ付けたドレス、マスキングテープの服…など、販売するには再現不可能な、完全に宣伝媒体だと割り切ったコレクション用のピースでのショーを次々とおこないました。
その当時の彼は失業保険でコレクションを作っていたので、ショーが成功し、舞台裏でインタビューを受けるにも後ろを向いて顔を隠していました。(バレると逮捕されるため。)
95年秋冬、19世紀のハイランド開拓をテーマに、レイプされた女性を表現した「Highland Rape(レイプされたハイランド)」では、破れた服をまとったモデルが次々に登場し、物議をかもしました。
95AW「Highland Rape」より 引用tumblr.com
「何も感じなきゃ僕の仕事は失敗」
マックイーンは自身のデザインについてそう語り、次々にセンセーショナルなコレクションを発表していきました。
段々と注目度を増し、ブランドが有名になるにつれショーの後には注文が入るような状況になってきましたが、日々の生活はまだまだ苦しく、そんな中でコレクションを作る日々が続いていました。
Givenchyへの抜擢
マックイーンは1996年にGivenchyのクリエイティブディレクターとして抜擢され、2001年までの間に10シーズンのコレクションを発表していました。
なんでもGivenchyからマックイーンの自宅にいきなり電話がかかってきて、「チーフデザイナーになって欲しい」との依頼がきたそうで、彼曰く「ギャラがいいから」この話を受けたそうです。
パリに移り住んだ彼は自ら厳選したチームを作って一緒にパリに連れていき、Givenchyでのデザインに臨みました。
自分で編成したチームをコアメンバーとしつつも、Givenchyのスタッフたちとも徐々にお互いを理解、リスペクトし合う関係を築きながら「マックイーンのGivenchy」を作っていきました。
Givenchyでの仕事風景 引用theriver.jp
言葉の壁があったので、スタッフには身振り手振りで指示をしていたそうで、苦労はあったようですが、徐々に皆がマックイーンの人柄や才能に惚れ込んでいきました。
最初に披露したオートクチュールのショーは、ギリシャ神話に基づく物語である「アルゴ探検隊の大冒険」がテーマ。
頭に大きな角を生やし、白色と金色に飾られた美しい怪物たちが冒険者を迎えるような、非常にインパクトのあるショーでした。
Givenchy 1997SSオートクチュールコレクションより 引用vogue.com
ビッグメゾンであっても自分のスタイルを貫き、観客に衝撃を与えようとするマックイーンを見て、フランス人のデザイナーたちは「外国人がGivenchyを乗っ取って暴走している」とまで言う始末でした。
当時はファッション誌のライターなどからも気に入られず、ファッション界からは異端者として嫌われる存在だったようで、ショーが終わった後は気落ちして荒んでいたようです。
インタビューでは「(他人から敵意を向けられても)僕はファイターだから平気さ」と言っている場面がありますが、内心は複雑だったのではないでしょうか。
このGivenchyの最初のショーは失敗だったと彼自身も言っていますが、今改めて見ると、彼なりのエレガンスを表現しつつ“攻めた”姿勢は、Givenchyというビッグメゾンの中で、マックイーンの在り方を感じられる良いコレクションだったのではないかと、個人的には思います。
マックイーンは最初のGivenchyのショーの失敗を経て、「クソくらえ、みんな覚えてろよ」という気持ちでロンドンに戻り、フラストレーションをぶつけるように97年秋冬シーズンのAlexander McQueenのショーをおこないました。
荘厳なパリのホールから猥雑なロンドンへ。
「It’s a Jungle Out There(弱肉強食の世の中)」と題されたAlexander McQueenのショーは、ライオンをはじめとする野獣に化けたモデルたちが観客を威嚇するように挑発的な様子で登場する、衝撃的なものでした。
Alexander McQueen 1997AWコレクションより 引用firstview.com
全てを食い尽くさんばかりのマックイーンの怒りが滲み出した、迫力のあるショーが展開され観客は最高潮に興奮。
会場に入れなかった学生がバリケードを壊し、ランウェイに飾った車は燃え出し(演出ではなく事故だったそう)、危うく会場の全員が死ぬところだったとか。
このコレクションでマックイーンは殻を破り、本来の感性を取り戻したようでした。
その後数年間、彼はGivenchyのクリエイティブディレクターとして1年の半分をパリ、半分をロンドンで過ごす生活をします。
デザイン的にも変化があり、Givenchyの持っていたエレガンスをいい意味で吸収していった時代のようです。
マックイーンはセントラル・セント・マーチンズで学んでいた時代、パリでGivenchyのショーを見て、「こんなのクズだ、下らない」「史上最悪のショーだ」「あんな所では絶対に働かない」と言っていたそう。
そんなGivenchyに抜擢され、5年もの間そのチーフデザイナーを務めていたというのは、何とも奇妙な巡り合わせといえるかもしれません。
ブランドの躍進
Givenchyで利益を上げ、そのギャラをAlexander McQueenで使いながら自身のブランドも瞬く間に躍進していきました。
この時代は、Alexander McQueenというブランドが、より研ぎ澄まされていった時代なのではないかと思います。
先述の97年秋冬シーズンの「It’s a Jungle Out There(弱肉強食の世の中)」はもちろん、他にも衝撃的なコンセプトのショーを展開していました。
ランウェイに雨のようなシャワーを降らせ、それを金色のライトで照らした1998年春夏コレクション「The Golden Shower(放尿プレイ)」。
1998SS 「The Golden Shower」 引用firstview.com
このコレクションはアメリカン・エキスプレスの協賛により制作されており、同社の要望で「Untitled(無題)」に変更されましたが、ランウェイの演出は変えずに決行されました。
ジャンヌ・ダルクをテーマにした1998年秋冬シーズンの「Joan(ジョアン)」では、鎧を纏ったモデルたちが次々と登場、フィナーレでは赤いコスチュームのモデルを取り囲むよう炎が上がり、ジャンヌの火刑を連想させる演出がなされていました。
1998AW 「Joan」 引用firstview.com
1999年春夏コレクションの「No. 13」は、マックイーンのテクノロジーへの興味関心が色濃く現れたコレクションでした。
床から生えたロボットアームが二本あり、その中央に白いドレスを着た回転するモデル。
ロボットアームからはインクが発射され、モデルのドレスを染めていくというものでした。
1999SS「No. 13」 引用firstview.com
結果的にロボットアームでペイントするそのアイデアは大成功。
それ以降、Alexander McQueenは業界を超えて注目されるようになります。
スーパーマーケットで知らない人にサインを求められるほどに有名になった彼は、自分の知らないところで物事が動き始めている怖さを感じていたようです。
「お金が増えるほど不幸に見えた」
彼と近しいところにいたチームのメンバーは、当時の彼を回想してそう言います。
その頃の彼は、1年に10回のコレクションをおこなうという激務と、大きくなったブランドを背負うというプレッシャーに耐えきれず、ドラッグも始めたようです。
コカインによってクリアになることもあったようですが、代償は大きく、被害妄想などの弊害も出てきたといいます。
この頃のインタビューは攻撃的な様子で喋っていることも多く、「マックイーンはじきにGivenchyをクビになる」という噂を世間がしていると思い込んでいるようなものもあります。
業界の深みにはまっていくにつれ、次第に混乱していくマックイーン。
姿も変えたいと願うようになったマックイーンは、脂肪吸引などをおこない、外見を変えていきます。
常にギリギリのところで戦っていたマックイーンは次第にチームのスタッフなどにも辛く当たることも多くなり、チームのテンションも冷えていきます。
Alexander McQueenの創業からのメンバーが離れていくことも起こりました。
しかし、マックイーンが作る芸術は、皮肉にも、より研ぎ澄まされていきます。
ランウェイをガラス張りの精神病棟に作り変えた2001年春夏コレクション「Voss(ヴォス)」は非常に有名で、マジックミラーに向かって必死で出口を探すようなモデルたちが闊歩する、暗鬱な世界観が美しいコレクションでした。
2001SS「Voss」 引用firstview.com
“死”と“美”と“復活”をテーマにしたこのコレクションは、フィナーレで中央に設置されたガラスの箱が解体され、呼吸用チューブの付いたマスクを被った人物が裸で横たわっている姿があらわにされるという演出もおこなわれました。
このように、この時期のマックイーンは肥大していく名声と反比例して、精神的には非常に追い詰められていった時期といえます。
グッチグループへの参加
その頃、グッチグループ(現・ケリング)からの投資の話を受け、2000年にAlexander McQueenはグッチグループの傘下となります。
これによりAlexander McQueenというブランドは、多くの資金とそれによる自由を手にいれることになりました。(デザインにおいては100%マックイーンの意見を通すという契約だったそうです。)
また、同時期にマックイーンはGivenchyとの契約も終了。
真相は不明ですが、やはりGivenchyの中ではデザイン的な制約があり、自由に制作が出来なかったのではないかという話もあります。
Alexander McQueenに集中できる環境を得て、「これが僕の人生だ、天職なんだ」といっていたマックイーン。
次第に元の明るい人柄を取り戻し、Alexander McQueenというチームは大きくなりながらも良い雰囲気を取り戻していきます。
この頃の作品は、ケイト・モスの等身大ホログラムが映し出される演出を使った、2006年春夏コレクション「Sarabande(サラバンド)」など、実験的でありながらもマックイーンの美学が反映された作品を多く発表していました。
2006SS「Sarabande」 引用vogue.co.jp
同年のコレクションにて。「ケイト、愛してるよ」のTシャツを着たマックイーン。 引用firstview.com
ちなみに、このコレクションの直前である2005年9月にケイト・モスはコカイン使用がタブロイド誌に掲載され、数々のファッションブランドと契約を切られていた時期でした。
彼の盟友であったケイト・モスをあえてフィーチャーし、「ケイト愛しているよ」と書かれたTシャツを着て登場した彼は、辛い私生活の最中にありながらも、情に厚い部分は変わらなかったのだと思います。
プラトンのアトランティス島
2007年11月、彼のブランドを発見し育ててくれた、母であり姉のような存在であったイザベラ・ブロウが急逝します。
この事に彼は大きく落胆し、精神はこの後長く続く、深い闇の中へ落ち込んでいきました。
またこの頃、彼はHIV陽性であり、その闘病の最中にもありました。
しかし彼はこの時期にも、次々に素晴らしいコレクションを展開していきます。
イザベラの死を悼んで制作した2008年春夏コレクション「ラ・デイム・ブロウ」、幼い頃に木に登った記憶から着想を得た2008年秋冬「The Girl Who Lived in the Tree」、自然の脅威、生と死の循環や人間が自然に与える影響を訴える2009春夏「Naturalism」、ファッション業界への怒りが感じられる2009年秋冬「豊穣の角」など。
大きな地球を背景に、自然の脅威を訴える「Naturalism」 引用firstview.com
“ゴミの山”を囲んでモデル達が闊歩する「豊穣の角」 引用firstview.com
この頃の彼は次々と素晴らしいコレクションを作りながらも、常に“死”に取り憑かれていました。
結果的に最後のコレクションとなった、2010年春夏コレクション「Plato’s Atlantis(プラトンのアトランティス島)」を制作している時にも、「ショーの最後に観客の前で自殺したい」などと仲間に漏らしていたようです。
「プラトンのアトランティス島」は、マックイーンの頭の中に描く、どこにもない美しい世界を表現したコレクションでした。
爬虫類から水生生物のようなデザインに徐々に変化していくコレクション「Plato’s Atlantis」 引用firstview.com
「陸から海に帰っていく人たち」をテーマに、魚や蛇の鱗柄をコラージュしたようなドレスを身に纏った、この世界のどこにもいない爬虫類のようなモデルたち。
そのモデルたちの足元には見た事もないフォルムの、30cmヒールとも言われる「アルマジロシューズ」が履かれていました。
原始の海から上がってきたようでもあり、未来的な雰囲気も感じさせるパワフルな爬虫類たちが闊歩し、ロボットアームに取り付けられたカメラが観客席に向かって威嚇する独創的なショーに、観客の誰もがAlexander McQueenの未来に期待を抱いたかもしれません。
そんな中、2010年2月9日に、かねてから闘病中だった彼の母が亡くなりました。
彼は取り乱し、深く落ち込みました。
そして翌日の母の葬儀を待たずして、自宅で首を吊っているところを発見されたのでした。
彼が亡くなった時点で8割ほど完成していたコレクションが存在しており、彼のデザインチームがその後を継いでコレクションを完成させ、少数の編集者に向けて展示にて発表されたそうです。
「天使と悪魔」と非公式に題されたこのコレクションは、マックイーンの死後の世界への執着が最も強く現れており、彼の死後すぐに目にするには、非常に辛いものだったという人さえいました。
マックイーンの最後の作品 引用firstview.com
「Alexander McQueen」というブランドは、彼の死後、長年アシスタントを務めていたサラ・バートンが継続させ、現在もクリエイティブディレクターの交代を経て、現在もその美学を継承しています。
アレキサンダー・マックイーンを形作るもの
ここからは、アレキサンダー・マックイーンという人を形作っていた重要なピースを、少しずつお話していきます。
暗然たる世界への憧憬
Alexander McQueenの作品を見ても分かるとおり、彼はダークな世界観を持つアートや文学などに非常に強い興味を持っており、そこから美しいものを作り出すのを得意としていました。
「服は美しいものだが外には現実がある」「現実に耳をふさぎ世界は楽しいと思う人に現実を伝えたい」
彼自身がそうインタビューで答えたとおり、時に目を背けたくなる表現の数々は、現実の世界に厳しい目線を向け、そこから目を逸らすな、というメッセージの発信でもありました。
そんな彼の心の闇から生まれた初期の名作といえば、95年秋冬シーズンの「ハイランドレイプ」。
レイプされたばかりの女性の姿を表現し、全眼の不気味なコンタクトレンズをつけて、破れた服によろめいたような歩き方のモデルをランウェイに上げたこの作品は、人々の心を良くも悪くも強く動かし、翌日の新聞のトップに掲載されたそうです。
彼はこの時、「女性が嫌いだから嫌がらせでこういったコレクションを作っているのか?」というインタビューに対して、「そうではない、姉が夫に暴力を振るわれていたことを知っているし、女性が強く見えるアイデアを形にしただけだ。」と語っています。
彼はその義兄に虐待されていた過去もあるといい、そういった子供時代のトラウマをも、デザインとして昇華させていたのかもしれません。
また、マックイーンには彼曰く「暗黒のセックス時代」があり、ジョエル=ピーター・ウィトキンの写真に出会ったのもこの頃だそう。
ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品 引用infobae.com
ジョエル=ピーター・ウィトキンはグロテスクで美しい世界観が特徴の写真家で、アウトサイダーや障がい者をモデルに、宗教的なモチーフなどを組み合わせて幻想的な作品を作る写真家です。
マックイーンは彼の写真を好んで収集しており、Alexander McQueenの2001年春夏コレクション「Voss(ヴォス)」では、フィナーレで「サナトリウム」という写真を再現した演出をおこないました。
ジョエル=ピーター・ウィトキン「サナトリウム」 引用ethertongallery.com
2001SS「Voss」にて「サナトリウム」の再現。 引用firstview.com
また、グロテスク且つエロティックな作風で知られるドイツ出身のアーティスト、ハンス・ベルメールの作る球体関節人形にも彼は惹かれていました。
ハンス・ベルメールの作品 引用artpedia.asia
1997年春夏コレクション「The Doll(ドール)」ではハンス・ベルメールの人形に着想を得て、拘束具のようなメタルモチーフに四肢を固定したモデルや、腕を動かす事ができないジャケットを着たモデルが、不自然な動きでランウェイを歩くという演出をしました。
1997年SS「The Doll(ドール)」より 引用firstview.com
彼のコレクションにはレザーやラバー、ボンテージなどの特徴が見られることも多く、身体拘束のフェティシズムにも惹かれていたのかもしれません。
このように、彼は暗鬱なアートや文学を愛し、それに強く惹かれながら作品を作っていました。
彼の作る作品が、彼と同じようにどうしても暗いものに惹かれてしまう人々の心を掴んで離さないのは、彼のこういった嗜好があってのことかと思います。
イザベラ・ブロウ
イザベラ・ブロウ 引用vogue.co.jp
彼の才能を発掘し、ファーストコレクションの全てを買い上げた人物であるイザベラ・ブロウ。
幼い頃から母親の帽子のコレクションに心を奪われていた彼女は、VOGUEのアナ・ウィンターに見出され、最も重要なスタイリストの1人となり、生涯マックイーンを支えた人物です。
マックイーンのセントラル・セント・マーチンズでの卒業コレクション(Jack the Ripper Stalks His Victims)を見たあと、その全てが欲しいと感じた彼女は、彼の家に1日6〜8回電話し、母親に訝しがられながらも交渉の末に購入に至ったそう。
「誰かに恋して愛し、菜園のように世話をする」そんなポリシーを持っていたイザベラは、その後マックイーンを様々な人に紹介し、彼のコネクション作りに協力しました。
マックイーンは彼女について、「僕と同じで他人を気にしない、結局人はみんな別々の存在なんだ」と言い、約10歳年上の彼女について、とても共感していたようです。
ビジネスだけの関係ではなく、次第に友人のような関係になって行った彼らは非常に仲が良く、下品なジョークが好きなところも気が合うようで、ペニスだのアソコだのと言い合って二人で笑っていたそう。
イザベラの家に招かれて彼女のドレスをクローゼットから引っ張り出して(マックイーンが)ドレスアップし、ディナーを共に楽しんだりなどプライベートの時間も長く共有していたようです。
「普通が好きじゃない、安全策を取っていたら前にすすめない」とインタビューに答えるマックイーンは、独自の考えを持っている、エキセントリックなところのあるイザベラ・ブロウという人物に深く共鳴していたのではないでしょうか。
そんな2人の蜜月も長くは続かず、マックイーンがGivenchyのクリエイティブディレクターとなった頃、それまでビジネスとしても契約を交わしていた関係性をマックイーンが一方的に解消します。
「アレキサンダー・マックイーンはイザベラに育てられた」…そんなふうにファッション誌などに書かれるようになり、彼女の庇護の元にいることに耐えきれなくなったマックイーンが独断で決めたことでした。
そのことに彼女は大きなショックを受け、2人の関係性も次第に変わっていきました。
そんな彼女は、2007年11月に自ら死を選びます。
生前はがんと鬱病に苦しんでいたそうで、薬物の過剰摂取による急逝でした。
葬儀に出席したマックイーンは酷く打ちひしがれた様子で、関係性が変わっていってもイザベラへの深い愛情があったことは明確でした。
彼女の死を悼み、翌年の2008年春夏コレクションでマックイーンはイザベラ・ブロウをテーマにしたコレクション「ラ・デイム・ブロウ」を発表しました。
2008SS「ラ・デイム・ブロウ」 引用firstview.com
共作のフィリップ・トレーシーと 引用firstview.com
彼女が発掘したもう一人の才能である帽子作家のフィリップ・トレーシーと共に作り上げたコレクションは、大きな翼が羽ばたくようなネオンのセットを見せるところから始まり、「まるでイザベラがそこにいるよう」と観客に言わしめるほどの、イザベラへの深い理解と愛情を感じる作品となっていました。
「リー」であること、母との絆
母と 引用fashiongtonpost.com
マックイーンは、近しい人物から「リー」という愛称で呼ばれることの多い人物でした。
大好きな母親や家族たちからもリーと呼ばれ、チームの仲間たちも皆、彼をリーと読んでいました。
「アレキサンダー・マックイーン」というエレガントな制作をする表の顔の反面、“リー”である彼の素顔は、いたずらで無邪気な人物だったようです。
「行儀の悪いやんちゃなスクールボーイ」
「パブでいたずらばかりしていた」
というのは彼が若い頃に付き合っていた元・ボーイフレンドの話です。
荘厳な芸術作品を作りながらも、彼の持つ無邪気でいたずら好きな人柄は、多くの人たちを惹きつけていました。
Alexander McQueenの初期には、経済的に苦しい中でコレクションを制作するにあたって無償で手伝っていたメンバーが多くいたことなど、彼の人望の厚さを感じることができるエピソードもあります。
Givenchyに抜擢され、パリのオフィスで働いている時にも、「子供が社内を走り回ってる感じ」と揶揄されるなど、場所や立場が変わっても基本的にリーのスタンスは変わらないものでした。
また、リーは特にブランド黎明期から「イーストエンドの不良」と度々言われる、イメージ戦略ともとれる少しやんちゃな人柄を押し出していました。
しかしその反面、彼の母親は、彼のことを不良とは思っていないようで、「あの子は愛すべきハッピーな子供」とインタビューに答える姿も残っています。
彼の母親との絆はとても強く、彼は「母親に誇りに思って欲しい」という理由で、ショーには家族を呼んでいました。
ブランド初期の頃のショーのバックステージでは、彼の母親が手作りしたサンドイッチをモデルたちに振舞うことさえあったそうです。
普段はやんちゃで粗野なところもある“リー”ですが、母親のことはとても大切にし、優しい言葉遣いで接していたようです。
幼少期から、変わらない母からの愛情を受けることで「リー」という愛すべき人格が形成され、周りの皆を動かしていたといえます。
リーが母親の死後、その事実に耐えきれず自ら命を経ってしまったことも、母との強い絆ゆえだったのかもしれません。
彼の死には多くの人が悲しみ、泣きながらインタビューに答えている姿なども残っており、紆余曲折ありながらもチームのメンバーや多くの人に愛されていたことが伺えます。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
Alexander McQueenにおいて痛々しいまでに鮮烈な世界を見せてくれたデザイナー、アレキサンダー・マックイーン。
その生涯は決して楽しいことばかりでは無かったかもしれませんが、彼の作った作品の数々は、今でも色褪せない魅力で私たちを惹きつけています。
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