Lewis Leathersの歴史|ルイスレザー
引用wikipedia
こんにちは。ブランド古着買取専門店KLDです。
大人のハードなファッションが楽しめる“レザージャケット”。
そのレザージャケットの中でもトップに君臨するのが、多くの人にとっても憧れのブランドである『ルイスレザー(Lewis Leathers)』です。
品質が非常に高いのは言うまでもなく、このブランドでしか味わえない唯一無二の世界観が最大の特徴。
現在でもすべての商品について「英国製」を守り続けていて、耐久性などの機能性はそのままに、そのファッション性の高さでも、人々を魅了し続けているのです。
もともとルイスレザーは、ミュージシャンやロック好きの若者から人気が高く、現在では日本でも非常に人気のあるブランドですが、その始まりは、100年以上も前に遡ります。
ロンドンで19世紀末にオープンした当時のショップは、レザーを中心に取り扱うファッションブランドではなく、一介の“紳士服の仕立店”だったのです。
今回は、小さな仕立屋から出発したルイスレザーが、世界中を虜にする老舗レザーブランドに成長するまでの紆余曲折のストーリーについて詳しくご紹介していきます。
目次
洋服の仕立屋からの方向転換
世界中で多くの愛用者を持つルイスレザーは、1892年、イギリスで「Dルイス(D LEWIS LTD)」として設立されました。
もともとロンドンで事業を営んでいたアイザックス家の長男、「デイビッド・ルイス・アイザックス(David Lewis Isaacs)」が、父親の協力のもと洋服の仕立屋として開業したのが創業のきっかけです。
そして開店後まもなく、店舗近隣に自動車メーカーのショールームが次々にオープンしていったのが、以降の方向性を定める指針となりました。
彼が目を付けたのは、“当時流行していた自動車はオープンカーがほとんどで、運転のための防寒具が必須であること”。
そこでDルイスは、運転者向けの防寒コートやグローブ、ゴーグルなどに特化して、売上を大きく伸ばしていきました。
彼らはこの事業に満足することなく、さらに新たな領域へと挑戦の場を広げていきます。
そしてその転機が訪れたのは、1926年のことでした。
当時、彼らが注目したのは、第一次世界大戦を通して新たな産業として成長しつつあった「航空産業」と、今後大きくなると予測した「オートバイ産業」。
まず1つ目の“航空産業”からは、凍えるような極寒の中で飛行機を操縦するパイロットのためのユニフォームに着目しました。
彼らは、ストレッチ性に優れた分厚い綿素材と羊革を使用したジャケットを数多く製作していきます。
その生地の防寒性はさることながら、特筆すべきはそのデザイン。
通常のジャケットのフロント部分はボタンでしたが、それでは寒さが防ぎきれないことから、ボタンの代わりにジッパーを使用しました。
Dルイスの人気商品となった「白いフライング・スーツ」引用amazon
彼らの作ったジャケットは、以降“フライング・スーツ”と総称されるようになり、イギリスで飛行機用のユニフォームとして定着していくことになりました。
余談ですが、そのフライング・スーツには、パイロットたちが地図やノートを入れられる大きなポケットが配されていて、後の“ダブルライダース”と呼ばれるジャケットのデザインの基盤となっているそうです。
2つ目の“オートバイ産業”では、バイクレースの人気が出始めたことに注目し、モーターサイクルレース専用の革ジャンやブーツ、グローブなどの雑貨の製作を行いました。
1930年代には本格的にオートバイ産業が活性化し、ライダースジャケットがバイカーたちの必需品になってくると、いよいよ彼らのアイテムが世間に広がっていきました。
防寒の観点だけではなく転倒時に体を守る鎧として、またシンプルでスタイリッシュなデザインを探し求めていたバイカー達は、たちまちルイスレザーのレザージャケットの虜になったのです。
ルイスレザー公式本『Wings, Wheels and Rock’n’Roll』より引用instagram@lewisleathers
1950年頃には、プロのレーシングライダーが着用したユニフォームのほぼ全てがルイスレザーであったことからも、その知名度と人気の高さが窺えます。
また、彼らの経営基盤ができたのもこの頃でした。
創業者のデイビッドの父親と弟が、共同してイングランドに縫製工場を作り、独自の生産ルートを作り上げることで、さらにコストを削減。
この家族経営のスタイルは以降も定着し、1980年に会社が売却されるまで、彼らの子孫がこの経営手法を継いでいきました。
こうして、飛行機やオートバイに乗るための洋服を中心に経営を波に乗せた彼らは、1929年に企業として法人化することに。
また同時に、航空用衣類のブランド名として「Aviakit」を発表。
当時のこのブランド名は、いまだにタグに記載されています。
バイクブームによる黄金期の到来
1939年に第二次世界大戦がはじまると、もともと一部のパイロットジャケットを手掛けていた彼らが注目され、ついにイギリス空軍「RAF」から戦闘機用パイロットのユニフォームを依頼されるようになります。
それにより、今までとは比べ物にならない規模の仕事が舞い込みました。
さらにオランダやインド、ベルギーや南アフリカなど、各国の政府から注文を受け始めたのもこの頃です。
保温性をはじめとする優れた機能性を誇る彼らのレザーウェアが高く評価され、その品質の高さが世界中に認められていったのです。
こうした時代背景の中、彼らは同時進行で、さらなる挑戦を進めます。
それが、“レザージャケットのオーダーメイド”でした。
紳士服を作り上げてきたノウハウを活かし、イギリスで初めて黒以外のカラフルなレザージャケットを提案し、個人の好みによって自由に作り上げる喜びを伝えていきました。
そして彼らはさらなる転機を迎えます。それが、ブランドの黄金期です。
そのきっかけは、“戦後のバイクブーム”でした。
ルイスレザー公式本『Wings, Wheels and Rock’n’Roll』より引用amazon
軽量で高性能なバイクが各社から次々に発売され、そのブームが10代・20代の若者にまで広がっていきました。
もともと早い段階からバイカーのためのあらゆるアイテムを網羅し、スタイリッシュなデザインで統一された彼らの店に、人気が出ないはずがありません。
ルイスレザーは瞬く間に人気となり、イギリスだけでなく、国境を越えてバイカー達が訪れるようになりました。
さらに1953年には、“革ジャン人気”に拍車がかかります。
アメリカで公開されたマーロン・ブランド(Marlon Brando)主演の『THE WILD ONE(邦題:乱暴者)』という映画が大ヒットしたのです。
作中で登場したバイカーファッション 引用sonypictures.jp
この映画が当時の“不良少年”のファッション・ライフスタイルを確立させたといっても過言ではないほど、若者たちの心に大きな衝撃を与えました。
内容は非常に過激で、イギリスではその反社会的な内容に悪影響があると指摘し、国内での10年間の上映禁止が決定したほどだったとか。
それでもイギリスの少年たちは、マーロン・ブランドのポスターなどを参考に、彼らなりの“不良スタイル”を研究し、主人公の着用するライダースに憧れを抱きます。
ブロンクス 引用skanda.jp
そして彼らの求める革ジャンを、ルイスレザーが作製し、そのモデルを「ブロンクス(BRONX)」と名付けました。
その結果、不良少年に憧れるイギリス中の若者は、こぞってブロンクスを買い求めました。
こうしてルイスレザーは新たに10代・20代の若年層の顧客を獲得し、新たな形で黄金期に突入していったのです。
そこで改めて、若者層を含めた新規顧客に向けたカジュアル衣料として「ルイスレザー」が発表されました。
さらにカジュアルな印象を与えるべく、今までの「黒・茶」をベースにした革ジャン以外にも、赤や黄色、青など、アクセントになるカラーバリエーションを展開。
そして、流行に敏感な若年層にマッチするよう、音楽業界・スポーツ業界など、幅広い領域の広告に掲載し、さらにそのファンを拡大させていきました。
パンクロックの大流行ととに勢いを加速させる
そして、ルイスレザーの歴史を語るにあたって外すことができないのが、1970年代に起こったパンクロックの大流行です。
「セックス・ピストルズ(Sex Pistols)」や「ラモーンズ(Ramones)」が代表的なアーティストとして知られているパンクロックですが、その始まりはニューヨーク。
そのあと、ロンドンへも広がり、音楽界に大きな衝撃を与えていきました。
彼らが世界に与えた影響は大きく、音楽はもちろんのこと、彼らが好んで身に着けたファッションやアート、そのライフスタイルまでが世界中に浸透していったのです。
そしてその台風の目になっていたのが、このルイスレザー。
シド・ヴィシャス 引用punkandprogrock
ジョー・ストラマー 引用thefedoralounge.com
特に、パンクロックの象徴的な存在ともいえるセックス・ピストルズの「シド・ヴィシャス(Sid Vicious)」や、ザ・クラッシュ(The Clash)の「ジョー・ストラマー (Joe Strummer)」 がルイスレザーを愛用していたことが大きく話題となったことが、“ルイスレザー=パンクロックの代名詞”と印象付けるきっかけになりました。
ほかにも、ニューヨーク・ドールズ (New York Dolls)、ダムド(The Damned)といったロックミュージシャンたちがルイスレザーを購入していくと、その流れはさらに加速。
ライトニング 引用dig-it.media
また、この頃作られたのが、現在でも普遍的な人気モデルであり、ルイスレザーの顔とも言われている「ライトニング(LIGHTNING)」。
独創的で、英国らしいデザイン。左袖にジップポケットが配されたレザージャケットです。
黄金期を迎えた彼らの快進撃は止まらず、これから先も衰退することなど想像すらできなかったルイスレザーですが、1980年頃になると、創業以来初めての低迷期に突入していきます。
売上激減の低迷期
1970年代に爆発的な人気を得たパンクロックカルチャーでしたが、1980年頃にはそのブームも過ぎ去り、それと同時にルイスレザーの売上も激減。
そんな彼らが初めて迎えた低迷期では、経営体制も大きく変化しました。
創業以来ずっと家族経営を貫いていたアイザックス・ファミリーが、会社の株を売り出すことを決定し、1980年には「ワード・ホワイト・オブ・カンパニー」に買収されたのです。
ただ、会社の根幹が揺るがないようにと、30年以上ショップマネージャーを務めた現場の長が取締役役員に就任しましたが、2年後に引退。
実質経営の手綱を握ることは叶いませんでした。
そして同年の1982年、『イージーライダーM/Cクロージング』の子会社となり、1986年には、『リチャード・ライオン』が当時の会社から“ルイスレザーブランド”と、“ロンドンにある店舗経営”を買取ります。
ルイスレザーの生産を支えた工場も1983年頃には閉鎖 引用instagram@lewisleathers
このように、家族経営で成長し続けてきた彼らは、売上の減少と共に、経営自体も変化せざるを得ない環境に追い込まれていきました。
また1990年代になると、ファッション・レザー領域でルイスレザーの独り勝ちを見ていた様々な企業が、イギリス国内で安価な輸入品のレザー・バイクアイテムを多数提案したことで、ルイスレザーにさらなる打撃を与えます。
パンクロックブームが去った後、若者には“由緒ある歴史を持つ、高値のレザージャケット”を買う理由がなくなってしまったのです。
さらに、もう一方の顧客であったバイカー達もまた、レザージャケットのダウントレンドを受けて、レザースーツなど、高機能なウェアに流れていきました。
このように、今までの顧客層が感じていた、“ルイスレザーを着用することの特別感”が薄れてきたことによる訪れた低迷期。
経営権が定着しなかった当時のルイスレザーに、現状を打破する力はありませんでした。
デレック・ハリスによる復活劇
デレック・ハリス 引用dig-it.media
そんな低迷期にあったルイスレザーを救ったのは、現在のルイスレザーの代表でもある『デレック・ハリス』でした。
彼は、当時のオーナーであったリチャード・ライオンに声をかけ、ブランドの復活を試みます。
彼らが注目したのは、全盛期でもあった1960年代から1970年代に発売されたジャケット。
当時のファッション成功例をもとに、二人は全盛期に発売された「ブロンクス」「ライトニング」といった人気モデルをベースに、現代の復刻版として、デザインやサイジングなどを微調整して新たなジャケットを作り出しました。
ルイスレザーは、過去の自分を見つめ直すことで、未来へ再出発を図ろうとしていたのです。
一方で、その流通経路にも変化がありました。
長年営業していたロンドンのグレートポートランドストリートにあった店舗 引用instagram@lewisleathers
1993年、100年以上同じ場所で愛され続けてきた店舗が惜しまれながらクローズ。
ブランド自体も完全復活とはいえない状況でしたが、多数のショップからルイスレザーの卸希望を受け、ブランドの取扱店舗を徐々に拡大していきました。
そこで復活劇のきっかけとなったのが、“日本”の存在です。
1990年代の日本では、古着やモノづくりの観点からファッションを語ることがトレンドとなり、古い歴史を持つルイスレザーには以前から注目が集まっていました。
そして日本からの熱意あるオファーに応える形で、ルイスレザーの日本進出が決まります。
発売からすぐ、彼らのもたらした売上は期待以上に大きくなり、日本のファッションシーンにも大きな影響を及ぼすようになりました。
JUNYA WATANABE MAN2003SSより 引用tenpomap.blogspot.com
そしてさらに2001年、世界的な日本人ファッションデザイナーの手掛ける『ジュンヤワタナベ(Junya Watanabe)』とのコラボレーションの契約が成立し、大成功を収めます。
ルイスレザーの復活を試み、2人で協働してきたリチャードとデレックでしたが、2003年、いよいよオーナーの座をデレック・ハリスに受け渡し、本格的なブランド強化に取り組みます。
そして、日本という大きなビジネスチャンスを手にした彼らは、2005年に東京に「ルイスレザージャパン」を設立することになりました。
現在のLewis Leathers
改めて、ルイスレザーが世界中から高く評価されることになったのは、いくつかの理由があります。
それは、デレック・ハリスらが手掛けた復刻版のレザージャケットが非常に好調であったこと、日本という新たなマーケットを開拓できたこと…それ以外にも、「他ブランドとのコラボレーションを通して新たな価値を創出したこと」が大きく起因しているといえます。
2001年、ジュンヤワタナベとのコラボレーションを成功させたルイスレザーは、異なるファッションの歴史・カルチャー・対象顧客をもつ他ブランドの存在や、各デザイナーの考えるルイスレザーの在り方を受け入れることで、ファッション感度の高い新規顧客を次々に獲得していきました。
中でも有名なのが、日本を代表する世界的ブランドでもある『コムデギャルソン(COMME des GARCON)』とのコラボ。
コムデギャルソンとのコラボレーションモデル 引用fashion-press
背中に大きくペイントされたレザージャケットが有名で、発売当時はコムデギャルソン青山店でしか購入できないといった希少性も話題になりました。
ヒステリックグラマーとのコラボレーションモデル 引用hystericglamour.jp
また、『アンダーカバー(UNDERCOVER)』とのコラボでは『ライトニング』のモデルをベースに裏地を変更、『ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)』とはレザージャケットに留まらず、1万円ほどで購入できるTシャツも展開しました。
ザ・リアルマッコイズとのコラボレーションモデル 引用otoko-fuku.com
それから、藤原ヒロシ手掛ける『モンクレールフラグメント ヒロシ・フジワラ(7 Moncler Fragment Hiroshi Fujiwara7)』ではサイクロンベースのコラボ品を、ミリタリーウェアを展開するセレクトショップ『ザ・リアルマッコイズ(THE REAL McCOY’S)』ではモデル・使用する革のバリエーションを問わず、豊富なラインナップを展開。
もともとは機能性に長けた衣類からはじまったルイスレザーでしたが、パンクロック、バイカー、ファッションという様々な領域で常に新たな可能性を見出し、世の中に大きく広がっていったのです。
そして、古くから続く伝統を守りながら、革新的なデザインを取り入れ、熟練の職人による手作業で作り出されたレジャージャケットは、イギリス・日本をはじめとして、今もなお世界中から支持されています。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
洋服の仕立て屋から始まり、今やレザージャケットを象徴するブランドにまで発展を遂げたルイスレザー。
自動車メーカーの増加や戦争という時代背景、バイク・パンクロックブーム、日本との関係など、様々な社会的影響が絡まりながら好調期・低迷期・復活劇などの軌跡を辿ってきました。
今後も、その歴史ある風格と威厳を放ちながら、多彩なラインナップやコラボレーションなどで、多くのファンを虜にしていくでしょう。
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