COMME des GARCONSデザイナー・川久保玲ってどんな人?|コムデギャルソン
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
日本を代表するモードブランド、コムデギャルソン。
デザイナーは川久保玲さん、80歳を迎えようとする女性です。
世界的にあまりにも有名なこのデザイナーは、一体どのような人なのか?
コムデギャルソンというブランドはどのような人が作っているのか?
今回は、コムデギャルソンデザイナー、川久保玲とはどのような人なのか?について人物像を紐解きながら解説していきたいと思います。
デザイナーを知ると、よりそのブランドに愛着が湧くということがあると思います。
コムデギャルソンをお好きな方にはぜひお読みいただきたい記事となっています。
目次
川久保玲とは?
川久保玲(かわくぼれい)とは、日本を代表するファッションデザイナーであり、実業家です。
今や世界的に有名なブランドであるComme des Garçons(コムデギャルソン)を誕生させました。
また、株式会社コムデギャルソンを設立し、現在に至るまで代表取締役社長を務めているのも、他ならぬ川久保玲その人です。
川久保玲はデザイナーとして、80年代当時パリにおいてタブー視されていた、真っ黒な色を使用した服をコレクションで発表し、物議を醸します。
それは、川久保玲の存在を世界中に知らしめたひとつの事件でした。
当時のギャルソンの「黒」ルック 引用 fashionsnap.com
川久保玲は、それ以降もパリを拠点にコムデギャルソンとしてコレクションを行い、レジェンドを作り上げてきました。
川久保玲が生み出すモードは世界中のファッショニスタを熱狂させ、川久保玲信者を生み出すことになります。
川久保玲の経歴を追う
川久保玲は、1942年に誕生しました。
慶應大学文学部哲学学科で学び、一度旭化成へ入社。
旭化成で3年間過ごし、その後フリーとして活動をスタートします。
当初彼女は、広告用の写真撮影の仕事をしていましたが、その時なかなか自身のイメージに合う服を探すことができないため、自身で服作りに挑むことになりました。
それが、コムデギャルソンが誕生するきっかけとなりました。
それ以降川久保玲は、自分自身のスタイリングを世界に向けて主張し続けることになります。
引用 gxomens.com
1973年に株式会社コムデギャルソンを設立し、レディースウェアの製造販売がスタートします。
1975年には、東京コレクションに初参加しました。
コムデギャルソンのコレクションはとても評価が高く、同年には青山にフラッグシップショップが誕生。
現在のギャルソン青山店 引用 gxomens.com
1981年にコムデギャルソンはパリコレに初参加します。
パリでは当時、ボディーラインをアピールするコンサバティブなファッションが主流だったのですが、その中で川久保玲が発表したデザインは「体のラインを見せる」ということを無視したようなものでした。
さらには当時タブー視されていた“黒”という色で全体を構成したコレクションという攻めっぷりで、大きなセンセーションを巻き起こします。
川久保玲のデザインを否定する意見も数多く飛び交っていましたが、もちろんそればかりではなく、強い称賛もありました。
そこには「黒の衝撃」があり、「新しいレディースファッションの幕開けだ」と絶賛する人たちもいました。
ただし、川久保玲自身は必ずしも、「圧倒的称賛」を求めていた訳ではないのではないでしょうか?
川久保玲がアピールしたかったのは、コムデギャルソンの奥底にある存在感の方です。
コムデギャルソン、ここにあり。
それを世界中に知らしめるために、コレクションは大きく貢献することになりました。
1983年には毎日新聞ファッション大賞を受賞します。
同じ年にコムデギャルソンはアメリカに進出、ニューヨークに店舗を置きます。
1992年に川久保玲は、フランス芸術文化勲章を受章します。
また、同年1992年に彼女はAdrian Joffeと結婚しています。
夫であるAdrian Joffeと 引用 blazevy.com
1997年には英国王立芸術大学名誉博士号を授与します。
2001年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
2003年には朝日賞を受賞。
2004年にはフランス国家功労章を受章します。
2012年にはCFDAファッション アワードを受賞。
CFDAファッション アワードは、ファッション界のオスカー賞とも言われている賞です。
そして、2017年にはニューヨークのメトロポリタン美術館で、川久保玲氏にフォーカスした展覧会である「Rei Kawakubo/Comme des Garcons Art of the In-Between」が開催されました。
メトロポリタン美術館での展示の様子 引用 fashion-headline.com
このようにしてコムデギャルソンは、徐々にその存在感を知らしめ、世界中に知られるブランドとなっていきました。
川久保玲を形作るもの
ここからは、デザイナー・川久保玲はどのような要素から作られているのか?をお話していきます。
以下のエピソードのひとつひとつが、コムデギャルソンを成功へと導いたと言っていいでしょう。
- レザーライダースの私服
- 川久保玲の反骨精神とは
- 川久保玲がデザインした椅子の意味するもの
- 山本耀司は恋人?
という観点から解説します。
レザーライダースの私服
引用 asahi.com
まずは、川久保玲の私服に注目してみましょう。
2000年代あたりから川久保玲の私服は、レザーライダースがとても多くなります。
それ以前の1990年代には、レザーライダースものではなく、自身でデザインした、コムデギャルソンに雰囲気が似たアバンギャルドな服装でした。
着用するライダースのブランドは、コムデギャルソンのものではなく、英国のブランド、「Lewis Leathers(ルイスレザー)」のものが多いようです。
デザイナー自信が必ずしも自社のブランドを着るとは限りませんが、コムデギャルソンほど特徴的でビッグなブランドのデザイナーの私服が必ずしもギャルソンのもので無い、というのは少々意外かもしれません。
それを見て新しくコムデギャルソンのファンになった若い方々は、「川久保玲の私服がコムデギャルソンのイメージを狂わせてしまっている」というのではなく、これもコムデギャルソンのファッションデザインイメージのひとつであるというとらえ方をしているようです。
「川久保玲のレザーライダースが素敵だと思ったからコムデギャルソンを着るようになった」という方々もいます。
川久保玲は必ずしもコムデギャルソンの服を着ているわけではないのに、受け手はそれも含めトータルで「コムデギャルソンの世界観」を感じ取っている…
そのような意味では、コムデギャルソンというブランドは、「核心がありそうでズレて見えている」ファッションと言っていいでしょう。
デザインに絶対的な核心をもつファッションブランドは、時として時代の頂点に立つこともありますが、時代が進めば時代遅れになってしまうリスクもあります。
コムデギャルソンにおいては、「核心がありそうに見えてズレている」ことが現在に至るまで支持される要因とも言うことができます。
また、「黒」が印象的なブランドであるコムデギャルソンですから、川久保玲の着るレザーライダースは当然真っ黒、というイメージを持つ方も多いかもしれません。
しかし実際にはそうではなく、赤いものがあったり、白いものがあったり、時折黄色だったり…など、色々とカラーバリエーションも豊富です。
引用 elle.com
そこにあるのは、いつも心に秘めた川久保玲の「反骨精神」です。
彼女は、幼少期に両親の離婚を体験し、そのような反骨精神が自ずと築かれたのかもしれません。
反骨精神とは、時代の風潮・世論に反抗する気概のことです。
反骨精神が、コムデギャルソンのデザインに絶妙な「ズレ」を生み出しているとも言うことができます。
川久保玲の反骨精神とは
もう少し深堀りして、川久保玲の反骨精神とは何か追ってみましょう。
川久保玲は、3人兄妹の長女でただ一人女の子でした。
父親は、慶応義塾大学の職員であり、川久保玲もその後慶応義塾大学文学部哲学科に入学しています。
また、川久保玲の母親は英語教師であり、子育てが終了した段階で職場に復帰することを望みます。
しかし、川久保玲の父親はそれを認めようとはしませんでした。
当時はまだまだ男性社会であり、そういったいわゆる亭主関白な考え方も、川久保玲の父親だけが特別ということでもなかったようです。
しかし、川久保玲の母親の意思も強く、結果両親は離婚に至ってしまうことになります。
家長であり夫である父親の発言は絶対的であり、議論の余地はないというのが当時の日本社会の流れでした。
しかし母親は、「仕事に復帰できなければ離婚する」と言い放ち、結果的には離婚して高校教師への道へと進むことになりました。
川久保玲の母親には、日本社会の風潮に対しての反骨精神があったと言っていいでしょう。
彼女は「女性はこうあるべき」という当時の固定観念を、許すことができなかったのです。
そして、川久保玲に宿る反骨精神は、まさに母親の意志の強さを引き継いでいると言えるのではないでしょうか。
前述でコムデギャルソンは「ズレている」という話をしましたが、この「ズレ」が子供だましのいい加減なものでないのは、川久保玲の幼少期に養われたブレのない反骨精神あってのことです。
川久保玲がデザインした椅子の意味するもの
1983年頃から約10年の間に40点程度、川久保玲がデザインした家具が存在します。
今となっては、ほとんど手に入れることができないコレクターズアイテムです。
1981年にパリで開いた最初のショー「pirates」で大きな旋風を巻き起こした2年後、川久保玲がブティックを開店させるときに、お店の雰囲気にマッチした家具を見つけることができなかったため、自身で椅子であったりテーブルをデザインしたのがはじまりのようです。
こういった家具誕生の経緯は、川久保玲がなかなかイメージと合うデザインの服を見つけることができなかったため、自分自身で服作りをはじめたことがコムデギャルソン始動のきっかけであったのと似ています。
改めて椅子のデザインを見ても、川久保玲らしさを充分に見てとることができます。
デザインした家具の数自体は多くはありませんが、既成観念に囚われないデザインは服同様に空間を一変させます。
そしてこの家具たちは、パリ装飾美術館をはじめとする世界各国の美術館にパーマネントコレクションとして収蔵されるほど高い評価を得ることになります。
このような評価を得た今となっては、川久保玲のデザインした椅子は機能性を持つ家具ではなく、まさにアートそのものです。
川久保玲は、「一瞬のひらめきでいいなと感じた素材や形を取り入れる、それがすべてです」と当時のインタビューで答えています。
一瞬のひらめきとはある意味、優柔不断であり、気まぐれです。
それは「ズレ」のあるコムデギャルソンのデザインにも同じことが言えるのではないでしょうか。
川久保玲の「優柔不断であり気まぐれ」である視点が、時代時代を瞬間・的確にとらえていくのでしょう。
山本耀司は恋人?
山本耀司氏と 引用 gxomens.com
コムデギャルソンの川久保玲についてある程度知れば、「山本耀司との関係ってどうなっているの?」と気になるという方々も多いでしょう。
ネットでは、「山本耀司が川久保玲の結婚相手だった」なんていう記事も数点ありました。
著名なデザイナー同士である、川久保玲と山本耀司が夫婦なんてかなりロマンチックな話なので、そのような噂が独り歩きしてしまっているのかもしれません。
もちろん山本耀司と川久保玲は夫婦ではありませんし、結婚した履歴もありません。
山本耀司は離婚していますが、その後再婚はしていないようです。
ただし、山本耀司と川久保玲は同時代を生きた同志のような存在であることは事実です。
山本耀司は1943年生まれなので、川久保玲と夫婦だとしてもそれ程不思議なことではありません。
また、山本耀司は同じ慶応大学です。
同時期にパリコレクションで発表したり、ショーを開催していますし、真相ははっきりとわかっていませんが、かつて山本耀司と川久保玲は恋人同士のような関係だったことがあるのかもしれません。
引用 gxomens.com
真相は謎のままです。
川久保玲と山本耀司は良き仕事仲間であり、ライバルであっただけなのかもしれません。
少なくとも川久保玲にとって、山本耀司というデザイナーの存在意義はかなり大きかったということができるのではないでしょうか。
それはあまりにも近くの存在であり、道も似ているからです。
ファッション界で語り継がれる革命に、「黒の衝撃」という出来事があります。
これは、「Yohji Yamamoto」と「COMME des GARÇONS」、2つのジャパニーズブランドが起こした革命です。
当時、ヨウジヤマモトはパリコレでほとんどすべてのルックを黒で統一しました。
デザインも反骨精神を持ち、当時の流行であるエレガンスに反し、ボロ切れのような服でパリコレに挑みました。
Yohji Yamamotoコレクションより 引用 modediplomatique.com
コムデギャルソンとどこか似ていますが、彼らの反骨精神は、「同じものの存在」を簡単に許すことはありません。
もしコムデギャルソンが、ヨウジヤマモトに追随する後追いのファッションブランドであれば、「コムデギャルソンなど存在しなくてもいい」と考えるのが川久保玲の反骨精神でしょう。
では、山本耀司と川久保玲の違いをどこに見出せばいいのでしょうか。
ヨウジヤマモトはデビューから一貫して、オリジナルのコンセプトを貫徹させてきました。
一方でコムデギャルソンには、ある種の柔軟さがあります。
「一瞬のひらめきでいいなと感じた素材や形を取り入れる、それがすべてです」とは川久保玲の言葉。
川久保玲の目には、しっかり瞬間瞬間のトレンドが見据えられているのでしょう。
そのような意味では、山本耀司の方が頑固という感じがあり、時として時代から乖離してしまうことがあるかもしれません。
事実、過去にはヨウジヤマモトの業績が伸び悩んで、経営が悪化してしまうこともありました。
山本耀司には、「人間としての魅力がある」という方々は多いです。
そのように、「山本耀司が格好いい」と思うのも、山本耀司自身があまりにもメディア等への露出が多いからともいえます。
雑誌の表紙を飾る山本耀司氏 引用 prtimes.jp
一方で川久保玲の場合は、露出がないということではありませんが、
出るべきところを出ない、出ないところに出るというプロモーション戦略があるように見えます。
雑誌にも登場せず、公式ホームページすら曖昧模糊とし、ネットでの販売はしません。
その徹底的な独立志向を上手に顧客に知らせ、「有名になることを嫌うことにより有名になった」という感じではないでしょうか。
コラボレーションは、川久保玲も山本耀司もよく行いますが、より一過性に見えるのがコムデギャルソンです。
一過性であるからこそ、その限られた時間に話題を呼ぶことが可能です。
コムデギャルソンはコレクションラインから、ウォレット、パルファム、ブラック、プレイ…と言った多角的展開を行い、それをさらに世界の経済状況に合わせてフレキシブルに動かしています。
また、自社にデザイナーを複数抱え、「コムデギャルソン」という集団の中で他のデザイナーのブランドを展開させています。
一方でYohji Yamamotoは、ブランドラインは多数あれど、基本的には「山本耀司しかいない」という頑固な一面を貫いています。
川久保玲は、山本耀司の存在があったからこそ、同じ反骨精神であっても山本耀司と同じ道を通らず、現在のような長く続く成功を勝ちとったのかもしれません。
しかし、もし川久保玲の近くに山本耀司の存在がなければ、もっと川久保玲自身が頑固だったのかもしれません。
まとめ
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今回、コムデギャルソンを創設した川久保玲という人物についてフォーカスしました。
コムデギャルソンは「核心がありそうでズレて見える」。
そんな一面を持っています。
コムデギャルソンをコムデギャルソンたらしめているそんな要素を形作っているのは、いつも心に秘めた川久保玲の反骨精神です。
それは川久保玲の幼少期に養われたものと言っていいでしょう。
「一瞬のひらめきでいいなと感じた素材や形を取り入れるそれがすべて」
川久保玲が語る一瞬のひらめきとは優柔不断であり、気まぐれです。
そんな川久保玲の視点が、今後もコムデギャルソンを作っていくのだと思います。
私たちも、一つのリユース事業者という立ち位置ではありますが、そんな川久保玲さんのデザイナーとしてのあり方を今後も見つめていきたいと思っています。
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