栗原たおってどんなデザイナー?|TAO COMME des GARCONS
栗原たお 引用cdg-freak.com
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
イッセイミヤケ(ISSEI MIYAKE)、ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)と並び、日本のデザイナーズブランドの御三家として絶大な人気を誇る、コムデギャルソン(COMME des GARCONS)。
コムデギャルソンには、複数のラインがあり、そのどれもが個性的で、ファッションに興味のあるあらゆる消費者層にマッチしているため、「ブランド名自体を聞いたことがない…」という人はいないでしょう。
そんなコムデギャルソンを生み出したのは、ファッション界に衝撃を走らせた女帝、「川久保玲」です。
川久保玲と言えば「ジュンヤワタナベ(JUNYA WATANABE)」を手掛ける「渡辺淳弥」、そして渡辺淳弥と言えば「栗原たお」を連想する人も多いと思います。
彼らは、それぞれがコムデギャルソンのデザインを手掛け、世界中から熱い視線が送られる世界的ファッションデザイナーなのです。
今回は、川久保玲にその実力を買われ、早くからコムデギャルソン社のブランドを任された女性デザイナー、「栗原たお」について詳しく紹介していきます。
目次
名門校で学び、川久保玲のもとへ
栗原たお 引用yomiuri.co.jp
1973年に生まれた栗原たおは、ファッション関連の仕事をしていた父に影響を受けたのか、幼い頃から洋服が大好きだったそう。
そして学生になってもその洋服好きは変わらず、有名デザイナーを多数輩出するロンドンの名門校「セントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)」に通学。
セントラル・セント・マーチンズ 引用ryugakupress.com
セントラル・セント・マーチンズは、ファッションデザイナーを志す多くの人々が憧れる場所で、入学に関しても非常に競争率が高いと言われています。ですが、その実力を放つには最適な場所ともいえるのです。
実際に、在学中からブランドを立ち上げて大活躍したり、卒業後に世界的メゾンへの道が開かれたりと、その実績も素晴らしい物ばかり。
そんなセントラル・セント・マーチンズの卒業生には、自身のブランドや「ジバンシイ(GIVENCHY)」を手掛けた「ジョン・ガリアーノ(John Galliano)」、自分の名を冠したブランドを育て上げた「アレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)」、言わずと知れた世界的デザイナーである「フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)」など、錚々たる名前がずらりと並びます。
彼女はそんなファッション業界の中で最も有名な学校を、1997年に卒業しました。
卒業後、すぐに川久保玲率いるコムデギャルソン社に入社します。
川久保玲 引用wwdjapan.com
もともと彼女は、在学中に川久保玲の織り成す衝撃的なクリエーションに心を奪われ、「絶対にこの人の下で働きたい」と決意していたそうです。
当時のコムデギャルソンは、80年代に流行した全身をギャルソンの黒一色で固めた“カラス族”というスタイルが社会現象にまで発展したことをきっかけに世界に認知を広め、“創造集団”とも称されていた頃。
この当時も、現在も、日本発のモードブランドの代表格として世界のファッションシーンを牽引していく存在だったのです。
渡辺淳弥 引用vogue.com
そんなコムデギャルソン社に入社した後しばらくは、会社の先輩でもあり、既に社内で確固たる地位を築いていたデザイナー、渡辺淳弥のもとで経験を積むことになりました。
彼女はそこで現場に必要なスキルを身に着けるだけでなく、コムデギャルソンのコレクションが構築されていくのを近くで見ることで、着実に自身の力を伸ばしていきました。
彼女はそんな自分自身の若手時代の思い出を、今も自分の原動力として大切にしているのだとか。
実際に川久保玲が毎シーズン、コレクションを生み出す様子を間近で見て、美しいと思うと同時に、今まで自分が持っていた“美しい”の形が壊される…そこに刺激を受けたそうです。
同じやり方は出来ないけど、いつか自分も新鮮な驚きを世界中に届けたい。
彼女がそう思うようになるまでに、時間はかかりませんでした。
トリコ・コムデギャルソンのデザイナー就任
入社後、彼女は目を見張るスピードで実力をつけていきました。
はじめは渡辺淳弥のものでサポートをしていましたが、入社5年目の2003年、彼が担当していた「トリコ・コムデギャルソン(tricot Comme des Garçons)」を引き継ぐことになりました。
トリコ・コムデギャルソンは、「コムデギャルソン」設立から12年目の1981年に派生した、ニットウェアを中心としたラインです。
前衛的でモードな印象を強く打ち出しているコムデギャルソンと比較すると、“シンプルでミニマルな装飾を施したレディースカジュアルウェア”という立ち位置で、フリルなどといった女性らしいディテールが多用され、主に若い女性層をターゲットにしたリアルクローズが中心でした。
トリコ・コムデギャルソンは、もともとは川久保玲が担当していましたが、1987年に渡辺淳弥にバトンタッチ。
渡辺淳弥自身もコムデギャルソン社の社員という立場でありながら、自身のブランド「ジュンヤワタナベ(JUNYA WATANABE)」をデビューさせていたため、2つのブランドを兼任する状態が続きました。
その後、そのメンズラインも成功し多忙を極めるようになった彼は、信頼する部下である栗原たおにトリコ・コムデギャルソンを引き渡すことにしたのです。
そもそも川久保玲はファッション界で伝説的な存在でありますが、実は“ビジネス力”でもその凄い存在感を放っています。
コムデギャルソン社のブランドも取り扱っているドーバーストリートマーケットも川久保玲がディレクションしている 引用gin-suzu6.jp
彼女はことあるごとに「ビジネスも含めて、デザインである」という様に語っていて、斬新なクリエーションだけでなく、マーケティング、価格設定、販路の確保、店舗デザインや広告宣伝、さらには他ブランドとのコラボレーションなどといった“経営面“でもその手腕で鮮やかな結果を残しています。
そして彼女のこのマインドは、渡辺淳弥や栗原たおにもしっかりと引き継がれました。
川久保玲は“自分のブランドは自分で責任を持つ“ことを信念にしているため、提案段階からランウェイでの見せ方まで、トリコを任された栗原たおが作り出すコレクションの過程に一切口を挟まないそう。
また、トリコの新店舗が完成しても、事前確認さえ行わない川久保玲。
それどころか、彼女の手掛けるコレクションを初めて目にするのは、ショーの本番だそうです。
この事実からもわかるように川久保玲は、デザイナーを信頼し、一切の口出しをせず、ブランドのもの作りと経営を任せてきました。
それぞれのデザイナーが、“自分の思う新しさ”をしっかりと表現できる場所を用意して、各々の個性を爆発させ、新鮮な驚きを感じることを、川久保玲もまた期待しているのかもしれません。
タオ・コムデギャルソンのデビュー
2005年、栗原たおはついに自身のブランド「タオ・コムデギャルソン(tao COMME des GARÇONS)」を立ち上げることになりました。
コムデギャルソン社で、社内デザイナーがブランドを立ち上げたのは、渡辺淳弥に次いで2人目の快挙でした。
彼女は、自分の手掛けるブランドが同一化しないよう、差別化していくことを意識していたといいます。
具体的には、継続して担当するトリコ・コムデギャルソンは“幅広い顧客層に向けて送り出す大きなブランド”という位置づけにし、デビューした自身のブランド、タオ・コムデギャルソンは“トリコの規模感を保ちつつ、自分の色を強く打ち出すもの”として、全く異なる形で表現することを、もの作りの基盤から意識していたそうです。
デビューコレクションの作品 引用agnautacouture.com
そんなタオ・コムデギャルソンのデビューコレクションはパリで華々しく発表され、ケーブル編みの可愛らしいニットにフリルのレース、特にグレーを基調としたベーシックカラーに女性らしさを極めたフェミニンなディテールなどのデザインが、ファッショニスタ達の目にいち早く留まりました。
彼女のコレクションが大成功を収めたことは、火を見るよりも明らかでした。
そして彼女の師であり、“メディア嫌い”としても有名な川久保玲が、このタオ・コムデギャルソンについては「コンセプトが明確で、若々しくエネルギッシュで新しい」と口を開いたことも、評価を上げた一因となったようです。
その後も彼女は精力的にコレクションを発表しました。
“ハンカチ”を取り入れたルック 引用agnautacouture.com
機能性に優れたトレンチコートをベースに、身近な“ハンカチ”を取り入れたコレクションを提案したり、シンプルでクールなシルエットのトップスにフリルやリボンを施したり…彼女の伝えたい“新しさ”を次々と世に送り出していったのです。
2006年には、政治・社会情勢などを扱うアメリカの週刊誌である「ニューズウィーク誌(News Week)」日本版で、「世界が認めた日本人女性100人」という名誉ある賞を受賞するなど、彼女の進出は大成功を収めました。
しかし、タオ・コムデギャルソンは2011年に惜しまれながらも終了することになりました。
ブランド終了の要因は、もともと担当していたトリコ・コムデギャルソンと自分のブランドを兼任することによって多忙を極めていたこと、そして私生活で結婚・出産を経て、自身のライフスタイルが大きく変化したことが挙げられると言われています。
これにより、彼女はトリコ・コムデギャルソンに専念することになりました。
コムデギャルソンの傘を外し、ブランド名を「tao」へ
そんな彼女の手掛けるトリコ・コムデギャルソンが、大きな転機を迎えます。
2022SS、ブランド名を「タオ(tao)」に変更したのです。
このブランド名変更のきっかけは、川久保玲が彼女に「コムデギャルソンの名前を外して、自分の名前で仕事を進めたほうがいい頃合いではないか」と提案したことだったそう。
川久保玲は、常に新たなファッションの提案をしていく中で「自分はもう若くない」という発言をしたこともあり、自分が期待を寄せているデザイナーに、“今までよりも個性を発揮して飛躍してほしい”という思いがあるのかもしれません。
トリコ・コムデギャルソンは、コムデギャルソン社の中でも手の届きやすい価格帯で、デイリーユースに向いているデザインを数多く展開しているブランドでしたが、ブランド改名を通して彼女は「今まで長く経験してきたブランド(トリコ)のポジション性はそのままに、さらに強く、クリアなクリエーションをプラスしていきたい」と語っており、コムデギャルソンの傘から外れることへの不安はなく、自分らしさを強く表現していくことを決意していました。
そんなタオのファーストコレクションのテーマは、白を基調とした様々な表現を施した「MY WHITE」。
taoファーストコレクション 引用spur.hpplus.jp
コムデギャルソンというと、川久保玲の起こした“黒の衝撃”を含めて、“ブラック”のイメージを抱く人が多いかもしれません。
しかし、彼女がデビューに選んだのは、クリーンな“ホワイト・オフホワイト・アイボリー”。
様々な白を基調とした柔らかで繊細なオーガンジー・チュール素材を巧みに使用し、ギャザーやラッフル、フリルなどを施したボリューミーなシルエットを作り出したほか、可憐なフラワープリントやバレエシューズといった可愛らしい印象のデザインやアイテムを展開しました。
ベーシックなワードローブを得意としていたトリコ・コムデギャルソンの着やすさはそのままに意識しながら、彼女らしさを強く打ち出したコレクションとなったのです。
“コムデギャルソン”のフレーズを取り、自分のブランドとなったタオ。
ファーストコレクションに掛ける彼女の思いは、並々ならぬものであったに違いありません。
そんな大事なコレクションのテーマに選んだ“白”は、自身がセントラル・セント・マーチンズ在学中に発表したファッションショーでも主軸にした色であり、憧れだったコムデギャルソン社の面接でも着用した思い入れの強い色なのだとか。
自分の勝負カラーで新たな始まりを彩り、大成功を収めたのです。
様々なコラボレーション
コムデギャルソン社では、渡辺淳弥が手掛けるジュンヤワタナベを含め、コラボレーションを盛んに行うブランドが多いのが特徴です。
今では当たり前になった「ダブルネーム」も、初めに取り入れたのは彼らだったといいます。
そして、それはタオも同様です。
特にブランド名を変更してからは、自分の名前を冠したスタートになったこともあり、様々なことに挑戦していくマインドが強くなっていたのです。
タオ×UGG 引用fashion-press
例えば、秋冬のブーツで有名な「アグ(UGG)」とのコラボレーションでは、アグのアイコンブーツである「クラシックミニ」をベースに、タオらしいケーブルニットを組み合わせたものを発売し、話題になりました。
また、フランス発祥の「パトリック(PATRICK)」とは、タオとのコーディネートにもこだわったコラボレーションを実施し、タオの2024SSテーマである「インディゴ」に合わせて、製品染めしたスニーカーを展開しました。
そしてタオのコラボレーションで特徴的なのは、ブランドだけでなく、アーティストとの協業も盛んな点です。
2023年には、アーティストの「Shun Sudo」の作品をデザインに落とし込み、話題になりました。
Shun Sudoは、東京とニューヨークを拠点としている、ペインティングをはじめとした多方面で活動するアーティストで、壁画やポップアートなどを手掛けるほか、AppleやNIKEなどの企業コラボまで様々なシーンで活躍しています。
タオ×Shun Sudo 引用fashionsnap.com
そんな彼のシグネチャーであるポップでハッピーな雰囲気のアイコンモチーフ「ボタンフラワー」を、タオの洋服に取り入れてコレクションを発表しました。
「ボタンフラワー」は、留めることでモノ同士をつなぐことができる「ボタン」と、平和の象徴である「花」を組み合わせることで、“人や世界を繋げていきたい”というShun Sudoの思いが込められたモチーフです。
栗原たおは、そんなにShun Sudoの考えに共感したことと、コロナ渦で世界中が不安に包まれた状況下でも継続的に発信していた彼の作品にエネルギーを感じたことで、オファーを持ちかけコラボレーションが実現したそうです。
また、書道を軸に活動を続ける芸術家、「新城大地郎」ともエネルギッシュなコラボレーションを発表しました。
彼は沖縄の宮古島で生まれ、幼少期から育んできた“禅”の思想を軸に、型に縛られない自由なスタイルでコンテンポラリーな表現を追求しているアーティストです。
旅をした時に自然の深みに心を動かされた栗原たおが、そのエネルギーをコレクションで表現しようと心に決め、書道家の新城大地郎にオファーをしたそう。
そんな新城大地郎とのコラボレーションでは、タオの2024SSテーマである「インディゴ」にちなみ、彼の出身地である沖縄の伝統的な“琉球藍染”をメインに様々なインディゴ染めを披露しました。
タオ×新城大地郎 引用vogue.com
新城大地郎が普段扱う墨ではなく、生産自体が難しいと言われる非常に希少な琉球藍を用いることで、豊かな表情と新たなタオの一面を表現しました。
このように、彼女はあくまでも“デイリーユースできるもの”という基盤はそのままに、様々なカルチャーを取り入れ、新たなアイデアを具現化し続けているのです。
栗原たおのもの作り
前衛的なクリエーションの中に、ハンドクラフトや様々な文化を取り入れて唯一無二のコレクションを展開し続ける、栗原たお。
そんな彼女のもの作りは、“日常のふとしたこと”から着想を得ていると言います。
そして、彼女が何よりも重要視しているのは、“他者との対話”。
自分自身の小さな気付きを軸にしながら、信頼するチームスタッフと話し合いを重ね、形にしていくことを意識しているそうです。
その意識はコラボレーションにも反映されています。
2024SSで協業した新城大地郎は「自分が表現したいメッセージを明確に伝えるけど、それを受けてあなたが自由に表現してほしいと言われ、気持ちよく協業することができた」と語っており、自分を信頼し、自分の作品をベースに彼女が洋服を作る、というもの作りに強い信頼感を感じたそうです。
大きなブランドに成長したり、譲れないポイントが多くなってきたりすると、コラボレーション自体がスムーズにいかないこともあります。
しかし彼女は、協力者のもとへ自ら足を運び、直接話をすることを重視しています。
そのおかげで、自分だけでは生まれない新しくて大きなエネルギーが生み出されるのではないでしょうか。
“持続可能な世界を作る”という言葉が流行している昨今、ファッション業界でも素材選びや、着用後の回収・リサイクルなど、様々な観点で環境への配慮が重要視されています。
そんな世の中でも、栗原たおはデザインへの熱い思いを忘れません。
環境問題も大事なことだが、ファッションを楽しむ人や自分を表現したい人に自信や勇気を届けたいという思いが強い彼女は、インタビューでも「洋服を通して、ポジティブな気持ちを表現したい」と熱く語っています。
コムデギャルソンの中だけでなく、自分の名前を冠したブランドを持った彼女が、新たな表現方法を魅せていく「tao」。
これからも、熱いエネルギーをデザインで表現し続ける彼女の活躍から目が離せません。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
名門校で服飾を学び、憧れのコムデギャルソンに入社、そして瞬く間に力をつけて自身のブランドを手掛けるようになった栗原たお。
コムデギャルソンの傘を外し、自身の個性や感性を存分に反映したタオのデザインは、幼い頃から洋服好きであった彼女の洋服に対する強い熱意が込められています。
今後も、世の中の流れに流されることなく、栗原たおの日常に潜むポジティブな気持ちを、デザインを通して伝えてくれるでしょう。
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