山口小夜子ってどんな人?
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
ファッションの都パリで認められ、数々のデザイナーのミューズとなり「日本の元祖スーパーモデル」と言われている、山口小夜子。
一度見たら忘れられない奥ゆかしくも凛としたオーラは、現代も圧倒的な支持を得ています。
今回は、
- 山口小夜子とは
- 山口小夜子が辿った人生
- 山口小夜子を形作るもの
という形でお話していきます。
独自のスタイルを貫き、人生を通して“山口小夜子”を生き抜いた彼女の歩みは、自分の軸を持つ大切さを教えてくれるでしょう。
目次
山口小夜子とは
世界中から「東洋の神秘」と賞賛された伝説のモデル、山口小夜子さん。
おかっぱの黒髪に、切れ長の目を強調するような漆黒のアイライン、くっきり赤い唇は神秘的な美しさで、強烈な日本美をファッション界に持ち込んだ人物です。
日本人で3番目にパリコレデビューを果たし、1977年にはニューズウィークが選ぶ「世界のトップモデル6人」にアジア人として初めて選出されています。
1973年からは資生堂と専属契約を結んでいたため、ファッションに詳しくなくても、CMの妖艶な姿を覚えている方も多いのではないでしょうか。
モデルを引退しても、女優やパフォーマーなどの“表現者”としての人生を全うし、多方面の人々に影響を与えました。
山口小夜子さんの人生は57年という決して長くはない歩みでしたが、そのミステリアスな魅力と日本人女性の美しさを体現したような存在感は、現在もなお熱狂的に支持されています。
山口小夜子が辿った人生
ミステリアスな風貌が印象的だった山口小夜子さんですが、その人生については意外と知られていません。
本記事では、世界的なファッションモデルであり、女優やパフォーマーとしても活躍した、山口小夜子さんが辿ってきた人生についてお話します。
ファッションの原点を築いた生い立ち
1949年に神奈川県横浜市で生まれた山口小夜子さん。
外国人墓地の地域に実家があり、外国文化が身近にある環境で育ちました。
幼少期から魅力的な山口小夜子さん 引用gameappli555.com
幼少期は内気でおとなしい性格だったそう。
兄弟姉妹はおらず一人っ子だったため、よく一人で人形に色々な服を着せて遊んでいました。
この頃からファッションへの興味が芽生えていたのかもしれません。
洋裁が得意な母親は、娘のためにかわいい洋服を手作りしてくれたそうです。
これが彼女がファッションへの興味を開花させるきっかけとなりました。
また、山口小夜子さんは日本の雑誌だけでなく、アメリカで大人気の「Seventeen」を買うのが楽しみで、着てみたい洋服を見つけては母親に作ってもらっていたとのことです。
国内外の文化を行き来しながら自分なりのおしゃれを探すことで、独自の美意識を磨いていったのかもしれません。
服飾への情熱とモデルとしての第一歩
山口小夜子さんは京浜女子大学横浜高等学校を卒業後、ファッションの勉強をするため、服飾専門学校の杉野学園ドレスメーカー学院に入学。
杉野学園ドレスメーカー学院 引用wikipedia
在学中、170cm近くと日本人女性にしては背が高かったことから、仮縫いモデルを頼まれました。
これがきっかけで、プロのモデルを目指すようになります。
杉野学園ドレスメーカー学院を卒業後、早速いくつものオーディションに応募。
しかし、当時求められていたのは欧米人風のモデルだったため、黒髪で日本人特有の顔立ちをしている山口小夜子さんはことごとく落選が続きました。
当時のモデルといえば、“金髪でホリの深い顔立ち”というスタイルがスタンダードとされていた時代。
山口小夜子さんは、そこにあえて黒髪の和のイメージで切り込みましたが、オーディションで落とされるたびに「髪を染めたほうがいい」「パーマをかけなさい」と言われ続けました。
それでも日本人女性の美しさに誇りを持っていた彼女は、黒髪のおかっぱ髪を変えようとしなかったそう。
しかし、自分のスタイルを貫いたからといってオーディションに受かるわけでもなく、モデルの仕事がとれない状況が続いていました。
モデルを辞めようと思った矢先、「そのままでいい!そのまんまでいいから!!」と声をかけてくれた人物がいました。
山本寛斎さん 引用nybiz.nyc
それが山本寛斎さんです。
インタビューで山口小夜子さんは当時をこう振り返っています。
「私は寛斎さんに拾われたの。もしもあのとき、寛斎さんのオーディションに行っていなかったら、私はモデルを辞めていた」
山口小夜子さんにとって、山本寛斎さんは生涯の恩人ともいえる特別な存在であることは間違いありません。
山本寛斎さんに見出され、1971年にプロのモデルとしてデビュー。
1970~1980年代は多数の山本寛斎さんのショーで活躍 引用hatena.blog
山本寛斎さんのショーは大成功し、山口小夜子さんは東洋人としての美しさが評価され、その後モデルとして活躍するようになります。
高田賢三と山口小夜子さん 引用growing-art.mainichi.co.jp
その後、高田賢三や三宅一生などのミューズになり、コムデギャルソンやヨウジヤマモトなどのショーにも出演。モデルとしての実力を着実に磨いていきます。
パリコレデビューを果たし、日本人の美を世界に広める
山本寛斎さんにモデルとしての才能を見いだされた山口小夜子さんは、1972年にパリコレデビューを果たします。
クリスチャン・オジャール1979SS 引用christianaujard.jp
次いでニューヨークコレクションにも参加。
黒髪ストレートボブにマットな白い肌、切れ長な目のアイライン、くっきり赤い唇が東洋的な美しさを醸し出し、日本女性の美しさを国内外に知らしめます。
日本人がパリを歩いていると冷たい視線を感じるような時代に、日本人らしさを前面に押し出すヘアメイクでランウェイを歩いた山口小夜子さんは、ファッション業界では前衛的でクールな存在として一躍脚光を浴びました。
イヴ・サンローラン 引用cahiersdemode.com
1970年代初頭には、イヴ・サンローラン、シャネル、ジャンポール・ゴルチエなど、パリの一流ブランドのモデルも務めています。
唯一無二のモデルとして存在感を示したことから、世界的ファッション雑誌「VOGUE」にもたびたび登場しました。
1973年には資生堂のモデルとして専属契約。
資生堂の広告塔としてポスターやCMに登場しています。
資生堂の広告 引用cahiersdemode.com
ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱの日本人らしい美を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現しました。
1977年には、米国の雑誌「ニューズウィーク」で世界のトップモデル6人の一人にアジア人で初めて選ばれます。
彼女のエキゾチックな顔はヨーロッパで熱狂的に支持され、1970年代半ばには英国のアデルー社が「SAYOKO マネキン」を製作。
SAYOKOマネキン 引用cheeeees.com
これはパリやニューヨーク、ロンドンで一流店のウィンドウを飾り、小夜子ブームを巻き起こしました。
モデルの枠を超え、表現者として多方面で活躍
パリコレデビューを果たし、勢いを増していた山口小夜子さん。
しかし当時のファッション業界では、20代後半になるとトップモデルから引退するのが一般的だったため、彼女もその流れに沿って、1980年代半ばにはランウェイから姿を消しました。
その後は、自身の経験や美的センスを生かしたモデル以外の仕事に励みます。
中国の不思議な役人 引用stage.parco.jp
中央が山口小夜子さんでしょうか 引用stage.parco.jp
1977年には、劇作家の寺山修司が演出した舞台「中国の不思議な役人」に出演して女優としての活動も開始。
同時にダンサーの勅使川原三郎や、舞踏家の天児牛大などとのコラボレートを通じてダンスパフォーマンスの世界にも進出。
ロンドン・オールドヴィック劇場やNY・ヴァムなど、数々の有名劇場に立ちます。
1992年、結城座公演「ペレアスとメリザンド」 引用fashion-headline.com
また、糸あやつり人形劇団「結城座」の人形たちとの共演など、より表現者としての側面を強めていきます。
1998年フランスリヨン国立歌劇場オペラ「三人姉妹」では、衣裳・ヘアメイクデザインを担当。
フランス批評家協会最優秀作品賞を受賞するなど、舞台の衣装デザインにも尽力するようになりました。
2001年にはロンドンの劇場、シアター・ ロイヤル・ドゥルリー・レーンにて「AMATERASU」の主演を努め、日本的な独自の個性の不思議さを、世界基準の美しさに転化させるアーティストとして活躍。
モデルのときの妖艶で無機質な表情のイメージを覆し、生き生きとした女性としての愛らしさも見せるようになり、新たなファンも増えたと言われています。
さらに、自身のブランド「SAYOKO YAMAGUCHI」のプロデュースや雑誌の連載企画など、クリエイションの場は多岐に渡ります。
突然の死
2007年8月14日57歳、急性肺炎のため死去した山口小夜子さん。
死後数日経ってからの発見だったため、当時は孤独死と騒がれていました。
2007年7月21日に公開した馬頭琴夜想曲 引用natalie.mu
最後の映画作品となった「馬頭琴夜想曲」の木村威夫監督が、山口小夜子さんについて「1週間ほど前に会ったばかりだったが、体調が悪い様子はなかった」と語っていることから、いかに突然の死であったかがうかがえます。
生前は世界的に名の知れたモデルでしたが、私生活は謎めいた存在であったことから、伝説のモデルとも称されるようになったのです。
死後の影響力とインスピレーション
死後には彼女の展覧会やドキュメンタリー映画の公開などが行われ、多くの人に感動を与えました。
なかでも、2015年に公開された自身のドキュメンタリー映画「氷の花火」は貴重な作品とされています。
当時、すでに死後8年が経過した時期の公開にもかかわらず、「山口小夜子」を知らなかったはずの世代にも熱狂的に受け入れられました。
2015年には東京都現代美術館にて、彼女の生涯と携わった作品群を回顧する「山口小夜子 未来を着る人」が開催。
入場者数5万5000人を超える大盛況となり、山口さんのファッションや生き様が多くの世代に支持されていることが証明されています。
KENZO2018SS 引用fashion-headline.com
また、KENZO2018SSで、高田賢三の永遠のミューズである「山口小夜子」をテーマにしているのも注目したいポイントです。
山口小夜子さんの魅力からインスピレーションを受けた、高田賢三の故郷である日本を讃えるコレクションが製作されました。
山口小夜子を形作るもの
世界中の人々に「東洋の神秘」と称賛された伝説のモデル、山口小夜子さん。
ここからは、山口小夜子を形作るものについてお話します。
謎に包まれた神秘的なオーラ
プライベートなことを多くは語らなかった山口小夜子さん。
彼女の人生は謎に包まれています。
引用msn.com
モデルとして人前に出るときは、「山口小夜子」というキャラクターを作り上げていました。
“大声では喋らない”、“笑わない”という徹底ぶりで常に神秘的な美を放ち続けたのです。
山口小夜子さんは結婚した夫がいなかったとされていますが、一方でデザイナーの山本寛斎さんと愛人関係だったという説もあります。
山口小夜子さんは山本寛斎さんに見いだされたも同然で、お互いに信頼し合い、欠かせない関係だったようです。
山本寛斎さんと山口小夜子さん 引用sponichi.co.jp
山本寛斎さんは既婚者だったため、不倫関係が長く続いたことで山口小夜子さんは結婚のタイミングを逃し、生涯独身を貫いたという説ですが、あくまでも仮定の話であり、真実かどうかは明らかになっていません。
また、山口小夜子さんは同性愛者だったという説もあります。
ただし、こちらもあくまで噂レベルの説です。
山口小夜子さんは女優として活動する中で、同性愛を題材にとった作品に出演することも多く、実際に同性愛主義者の方の間でも山口さんの美しさは憧れであり、人気も高かったようです。
ほかにも、山口さんが無性愛者(アセクシュアル)だったのではとも囁かれています。
無性愛者とは、他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かない性質を持って生まれた方のことです。
いずれにしても、山口小夜子さんがなぜ結婚しなかったのかについては、現在も謎に包まれています。
幅広いジャンルで活躍されていたため、単純に忙しくて仕事に没頭し、結婚という選択をしなかったとも考えられますが、このようなミステリアスな要素も彼女の神秘的な魅力につながっているのでしょう。
こだわり尽くした独自のスタイル
引用msn.com
切れ長の目を強調するアイメイクや、くっきりと縁取った深紅の口紅は、こだわり尽くした山口小夜子さんならではのスタイルです。
意志を秘めた視線は、キリっと固く結んだ唇とあいまって、一度見たら忘れない印象を刻みつけられます。
実は、山口小夜子さんは大きく丸い目の持ち主でした。
しかし、切れ長の目を印象づける繊細なアイラインを、メイクアップアーティストとの共同作業の中で生み出したのです。
ほかにも、くっきりとした赤い唇や白い肌、高い位置のチークも、メイクによって神秘的な山口小夜子としての独自イメージを作り上げていたのです。
「ウェアリスト(着る人)」という考え
晩年は「ウェアリスト(着る人)」と名乗り、ファッションだけでなく、ダンスや音楽、映像、文学などを融合させたパフォーマンスに挑戦していた山口小夜子さん。
常に新しいものに対する強い感受性を持っており、多彩な芸術が混在する実験的な試みを、若い世代の先鋭的な表現者たちと続けていました。
1995年、パリコレでプリーツ・プリーズの服をまとう山口小夜子さん 引用istitutomarangoni.com
1980年代半ばにランウェイから姿を消しましたが、1995年の46歳の時にランウェイに復帰し、着ることを通しての表現を追求。
モデルはその洋服をいかに美しく見せるかが仕事ですが、それをより深く突き詰めて、表現者としてダンスパフォーマンスの世界でも活躍の場を広げて行きました。
ウェアリストを名乗ることについて、彼女は2005年に以下のように語っています。
「人間は“心が体を着ている”という言い方もできると思います。もっと言えば、それを取り巻くすべてのものを着ている。空気も光も。つまり、“着ることは生きること”とも言えるわけです」
モードを美しく着こなすことに留まらず、着ることを通しての表現を追求した山口小夜子さん。
年齢を重ねるごとに新しい美をしなやかに取り入れる姿勢は、現代女性にも影響を与えています。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
世界の”美”の基準を覆し、様々なインパクトを残してきた山口小夜子さん。
その妖艶で謎めいた存在は、現在も、そして今後もたくさんの女性に影響を与え続けるでしょう。
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