ジャンポール・ゴルチエってどんなデザイナー?|Jean-Paul GAULTIER
引用vogue.de
こんにちは。ブランド古着のKLDです。
常識を覆したフェミニズム・ジェンダーレスなアイテムをいち早く発表し、時代を先取りしたファッション界の巨匠、ジャン=ポール・ゴルチエ(JEAN PAUL GAULTIER)。
デザイナー本人はファッション界の異端児と呼ばれ、常に性別・ジャンルを超えたコレクションを発表し続けています。
また、自身も男性でありながら男性を恋愛対象としていることを一度も隠したことがなく、それを公言した最初のデザイナーでもあります。
それは彼のコレクションにも表れていて、世界中で最初に男性モデルにスカートを穿かせたり、年配のモデルやサイズの大きなモデルをランウェイで魅力的に表現したりと、独創的な決断も行っています。
マドンナ“コーンブラ” 引用cahiersdemode.com
彼の名前を知らない人でも、『マドンナ』で知られる世界的に有名な女性アーティスト、『マドンナ・ルイーズ・チッコーネ(Madonna Louise Ciccone)』のステージ衣装で、胸の部分に尖った突起を施した“コーンブラ“と呼ばれるものを見たことがある人もいるかもしれません。
実はその衣装を手掛けたのも彼。
今回は、ジャン=ポール・ゴルチエの人物像や、ファッション業界に留まらず音楽や映画・ミュージカルといった多岐に渡る彼の活躍について詳しくご紹介していきます。
目次
ゴルチエの歩み
会計士の両親のもとで生まれ育ち、ファッションの道へ
ジャン=ポール・ゴルチエは、1952年、フランスのパリ郊外で生を受けます。
幼少期のゴルチエと彼の祖母 引用jeanpaulgaultier.com
会計士だった両親は、息子には教師になってほしいという願いを持っていたのですが、彼の祖母が洋服の仕立屋だったこともあり、彼は“洋裁”に喜びを見出します。
7歳の頃、祖母の仕事の見様見真似でお気に入りのテディベアのぬいぐるみに円錐型のブラジャーを作って着せたそうですが、実はこれが、後のマドンナのステージ衣装となる基盤になっているのです。
また、幼いころに周囲が騒がしい遊びやゲームに夢中になっていた時も、彼は映画やミュージカルといった、“美しいもの”を見ることを好んでいて、9歳頃からは演劇の世界に夢を見るようになります。
その頃はまだ、ファッションよりもエンターテイメントへの興味が強くありましたが、13歳の時にファッションデザイナーの恋愛を描いた映画『偽れる装い』や、テレビで放送された老舗キャバレー『フォリー・ベルジェール(Folies Bergère)』のファッションショーに出会い、「自分が進みたいのはこの道だ」と気が付いたのだとか。
偽れる装い 引用allcinema.net
パリで最も有名なキャバレー劇場の1つであるフォリー・ベルジェール 引用wikipedia
それでも彼は両親の願いを意識して、服飾の専門学校へは通わず、独学でデザインの勉強を進めていきました。
ですが、休みの日に1日中ファッション雑誌を読んだり、自分の思うままデザインを作り上げる彼の様子を見て、両親は息子の自己実現を強く後押しし、快くファッションの世界に送り出したのです。
両親は、当初「息子には教師になってほしい」という思いがあったにも関わらず、彼の意志を強く尊重したことからもわかるように、非常に心が広く、一切の偏見を持たない人間でした。
また彼が17歳の頃には、まだ人種差別が色濃く残る時代の映画を見て「もし自分が、黒人の女の子をガールフレンドとして紹介したらどう思う?」と聞いた時、「お互いが想い合っているのであれば、何の問題もない」と言ってくれたそうです。
そして数年後、自分の恋愛対象が男性だと自覚し、パートナーの男性を紹介したときも、大いに喜び、歓迎してくれたのだとか。
このように、彼は“人は一人ひとり違って、そのどれもが美しく、尊いものである”という考えを両親から学び、のちにその多様な美を、自身のコレクションで表現していくことに繋がっているのです。
そんな両親の協力のもと、独学でファッションの勉強を進めた彼は、自分の思うままデザイン画を描き、彼の尊敬するデザイナーやスタイリストに送ることを繰り返した結果、1970年、世界的に人気のあるフランスのブランド『ピエールカルダン(PIERRE CARDIN)』から声がかかります。
(中)ピエール・カルダン氏 引用vogue.co.jp
この事実は、彼自身が18歳という若さであったこと、そして専門学校を出たわけでもないことを考えると、大きな驚きでした。
彼はそこで約1年間アシスタントを務めたあと、同メゾンであったブリジット・バルドーのウェディングドレスを手掛けた「ジャック・エステル(JACQUES ESTEREL)」や、洋服に“リラックス”をもたらした『ジャン・パトゥ(JEAN PATOU)』でオートクチュールの経験を積みます。
ここで彼は、当時一緒にアシスタントを務めていた多くの日本人女性たちから、“日本の美意識や繊細な美しさ”を学びました。
また、服飾学校を出ていない彼に親切にデザイン画の書き方をレクチャーしてくれたのも、同僚の日本人女性たちです。
また、当時のファッションショーは“美しいモデルたちが無音の中でナンバープレートを持って歩くだけ”だった中で、高田賢三の表現する「ケンゾー(KENZO)」にも大きな影響を受けたそうです。
いつも心躍るショーを演出していたKENZO 引用spur.hpplus.jp
音楽に彩られた明るくて華やかなランウェイを、斬新な洋服を身に纏って歩くモデル…デザインはもちろんのこと、彼の手掛けた新しい形のファッションショーに感動し、自分もこんな表現がしたい、と強く感じたそうです。
ブランド立ち上げとオンワードとの関わり
若かりし頃のゴルチエ 引用fashiongtonpost.com
ファッション界に飛び込んでから6年後の1976年、24歳という若さで確固たる地位を築いていたゴルチエは、学生時代の友人であり、生涯をかけて愛する恋人でもあった「フランシス・メヌージュ(Francis Menuge)」の協力のもと、自身のブランド『ジャンポール・ゴルチエ』を発表しました。
しかし、彼のコレクションは最初から好調というわけではありませんでした。
当時は今以上にブランドの立ち上げには厳しい状況で、資金面でも苦労したそうです。
コレクションの商品も、蚤の市で見つけたインテリアのタペストリーを使ってボレロを作ったり、ナプキンをシャツに使用したりとリメイクアイテムが中心。
そしてランウェイのモデルは全員プライベートの友人だったそうです。
そんな彼の最初のコレクションは、恋人との思い出深いストリートやクラブのカルチャーを取り入れ、ヴィンテージのコルセットなどを使用した挑戦的で型破りなもので、フランスでは“退廃的”だと評され、苦戦を強いられました。
日本とイギリスのデザイナー達からは高く評価されたものの、地元フランスでは思うように評価されない状況が続く中、彼は3回のショーを開催。
それでも4回目のショーを開催する資金を作ることができず、立ち往生します。
しかしそこで出会ったのが、彼を語る上で切っても切れない関係であり、彼自身も“ファミリー“と語っている日本ファッションの大企業、「オンワード樫山」でした。
オンワードホールディングス 引用onward-hd.co.jp
当時、『クロード・モンタナ(Claude Montana)』や『ミュグレー(MUGLER)』などを展開するオンワードが手掛けるセレクトショップ『バスストップ(BUS STOP)』のデザイナー求人を見て、それに応募。
パリ店舗の店長であった女性の強い推薦もあり、ゴルチエが採用されます。
そして、実際にそこでデザイナーとして勤務した報酬を元手に、4回目のショーを開催することができたのです。
それに、ゴルチエの状況を一変させたのは、報酬面での後押しだけではありませんでした。
彼が手にしたものは、『オンワードにパターン・縫製を任せ、自分自身はデザインだけに専念できる環境を得たこと』『高品質な商品を作る経験』『パリの人気ショップ“BUS STOP”で取り扱われることによるジャンポール・ゴルチエのブランド知名度の拡大』でした。
オンワードとの関わりはこの時から続いていて、ビジネスを初めて共にした時から4年後の1981年には、オンワードとライセンス契約を結び、今までよりさらに強固な結びつきを得て、実際に日本での直営店運営をオンワードに任せるなど、共に幅広いビジネスを行っていくことになるのです。
最愛の恋人との別れ
自身のブランドが好調にファンを増やしていく中、ゴルチエは失意の底に落とされます。
1990年、15年来の最愛の恋人であったフランシスが、エイズの病によってこの世を去ったのです。
ゴルチエは、フランシスがエイズを発症してからこの世を去るまでの間、ずっと彼に寄り添っていたそうですが、恋人を失った彼の悲しみは、想像を絶するものだったでしょう。
恋人の死後、深い悲しみに襲われたゴルチエは、新たな恋人を作ることなく、現在まで独り身を貫いています。
しかし、ゴルチエは“自分と同じ思いをする人を少しでも減らしたい”という気持ちを強く持ち、HIVやエイズに関する活動を個人的に支援するようになりました。
ゴルチエは慈善イベントにも多く参加するようになり、1992年には、自身も多くの友人をエイズで亡くして打ちのめされた過去を持つファッションミューズの『スザンヌ・バーチ(Susanne Bartsch)』の企画した『Balade de l’Amour』では、フランス人デザイナーの『マンフレッド・ティエリー・ミュグレー(Manfred Thierry Mugler)』と互いのデザインしたアイテムを身に纏って登場。
『Balade de l’Amour』に参加するティエリー・ミュグレーとゴルチエ 引用journaldesfemmes
また同年、『米国エイズ研究財団(通称amfAR)』を支援するチャリティ・ランウェイでは、ミュージシャンのマドンナが乳房を露わにした衝撃的なセットアップでゴルチエ本人とキャットウォークに登場しました。
このショーでは75万ドルの寄付金が集まったそう 引用todayinmadonnahistory.com
2020年には、エイズ撲滅を目指すフランスの慈善団体「Sidaction」のアンバサダーにも就任しました。
ゴルチエは、このような慈善活動へ積極的に参加していくだけでなく、自身の作品でもエイズに関する認識を浸透させていきます。
1996年のコレクションでは、「Safe Sex Forever(安全なセックスを)」と大きくプリントしたカットソーを展開するほか、2015年には『イーストパック(EASTPAK)』とコラボしたバックパックを展開。
「Safe Sex Forever」カットソー 引用archivethreads.ca/shop
『イーストパック×ジャンポール・ゴルチエ』コラボバッグ 引用fashion-press.net
この売上の一部は、HIVに対して啓蒙活動を行う『Designer Against Aids』へ寄付されています。
彼は、インタビューで「コンドームは、これまでに発明された衣服の中で一番素晴らしい物だ」と語っていて、これからもHIVと積極的に戦い、HIVによって悲しむ人を少しでも少なくしていきたい、と強く心に決めているのです。
デザイナーとして活躍の幅を広げる
恋人との別れで深い悲しみに襲われたゴルチエでしたが、愛する彼と作り上げたブランドを大きく拡大し、自身のキャリアの幅も広げていきました。
1997年にはブランドのオートクチュールコレクションを発表し、ブランド開始当初評価されることがなかったことが嘘のように、大きな成功を収めます。
そしてその成功によって、2004年には世界的なビッグメゾン「エルメス(HERMES)」のレディースのデザイナーに抜擢されます。
自身のブランドとエルメスのデザイナーを兼任した期間は約7年間で、目の回るような忙しさだったそうです。
エルメス2004AWのランウェイにて 引用wwd.com
そこから一転、2012年にはエルメスを次のデザイナー『クリストフ・ルメール(Christophe Lemaire)』に託し、2015年には自身のブランドのプレタポルテの終了を発表。大きなニュースになりました。
残るはジャンポール・ゴルチエのオートクチュールラインのみになりましたが、それも2020年に引退を発表し、今後のオートクチュールラインは、『ジャンポールゴルチエ by 〇〇』というように、常にゲストデザイナーを招いてコレクションを発表するようにしたのです。
ジャンポールゴルチエ by シモーネロシャ 引用instagram@simonerocha
ブランドとしては華やかな方向転換の発表でしたが、ファッション業界からは、それ以上にゴルチエの引退を惜しむ声が多く上がりました。
ですが、ゴルチエは活躍の幅をファッション業界以外にも大きく広げただけだったのです。
具体的には、マドンナのワールドツアー用の衣装を作ったり、アメリカのロックバンド『マリリン・マンソン(Marilyn Manson)』のステージ衣装を手掛けたり、音楽業界でも大きく名声を勝ち取ります。
フィフス・エレメント 引用cinemore.jp
ほかにも、フランス映画『フィフス・エレメント』『バッド・エデュケーション』などの衣装提供を手掛けて、世界的なトップデザイナーの地位を確固たるものにしていきました。
また、幼少期から興味のあったミュージカル・演劇業界では、なんと自身の半生を描いたミュージカル『ファッション フリーク ショー(FASHION FREAK SHOW)』を公演するほか、2027年公開予定のベルギーの長編アニメーション(タイトル未定)では、ディレクターを務めることも発表されています。
このように、デザイナーとしてファッション業界のみならず、異分野での活躍とモード界との相乗効果によって、世界的なトップデザイナーとしてさらにその名を轟かせることになっていったのです。
手掛けたブランド
Jean-Paul GAULTIER
ジャンポールゴルチエ2011SSより 引用fashion-press.net
彼の名を冠したブランド『Jean-Paul GAULTIER』は、都会的でパンキッシュな雰囲気のアイテムを数々展開し、今では多くのブランドも行う“多様なボディサイズのモデル”を起用した第一人者でもあります。
その中でも彼が人々に衝撃を与えたのは“ジェンダーレスなファッション”の提案です。
今でこそLGBTという言葉が浸透し、様々なブランドから“ジェンダーレス”をキーワードに様々なアイテムが展開していますが、ブランド立ち上げ当初はそれ自体が非常に前衛的な提案で、賛否両論を生みました。
ジャンポールゴルチエ2010SSメンズコレクションより 引用vogue.com
ですが、スカートを穿いた男性モデルがランウェイに登場したとき、そのスタイリングが非常に注目され、大きくモード界に広がっていくことになったのです。
ジャンポールゴルチエ1993SSより 引用elle.com/
男性モデルに女性を代表するアイテムをあてがうだけでなく、女性モデルには男性用のタキシードや、胸を隠すようなハイウエストのスラックスなども着用させました。
コルセットなどで女性らしいボディラインを強調する一方、このような性の差異を意識しないアイテムを展開する彼の意志は、幼少期両親から教えられた“人種、ジェンダー、体型は関係ない。一人一人が美しい”というマインドから来ているものではないでしょうか。
ブランドの歴史としては、1976年に自力でブランドを立ち上げたあと、2年後にオンワード樫山の出資の元『ジャンポール・ゴルチエ社』を設立し、独立。
1987年には“ファッション界のオスカー賞”とも言われる『オスカー・ドゥ・ラ・モード』を受賞し、そのブランドを世界に大きく広めていきます。
パルファムラインのシグネチャーモデル『Classique(クラシック)』引用jeanpaulgaultier.com
翌年にキッズラインを、92年にはジーンズライン、93年にはパルファムのライン、97年にはオートクチュールコレクション、2010年にはメンズラインをスタート。
このように、次々と異なるコレクションを展開していくことで、ブランドファンを一気に獲得していきました。
ですが、40年以上に渡り展開し続けてきたプレタポルテを、2014年に終了。
これは、ブランド立ち上げ当初よりもビジネス・マーケティング面での制約が多く、デザイナーの思いを洋服に乗せて提案することが難しくなってきたことが原因だったそうです。
「1つのクリエーションに集中したい」として続けていたオートクチュールラインも、2020年にはゴルチエ本人が引退し、ゲストデザイナーを招く提案手法に変更することを発表しました。
ジャンポールゴルチエ by sacai 引用fashion-press.net
ゲストデザイナーは、初回からsacaiの阿部千登勢、DIESELのグレン・マーティンス(Glenn Martens)、BALMAINのオリビエ・ルスタン(Olivier Rousteing)、自身のブランドを持つハイダー・アッカーマン(Haider Ackermann)、パコ・ラバンヌのジュリアン・ドッセーナ(Julien Dossena)、2010年に自身のブランドをスタートさせたシモーネ・ロシャ(Simone Rocha)と、毎シーズン異なるデザイナーを招聘。
現場では、企画段階でゴルチエ本人がデザイナー達に絶対に口を出さないよう、徹底しているのだとか。
このことは、“デザイナーたちが考えるジャンポール・ゴルチエ”を自由に表現できる場にしたいという彼の思いが強く感じられます。
HERMES
エルメス2004AW、ゴルチエ就任後のファーストコレクションより 引用vogue.com
ゴルチエは、自身のブランドのオートクチュールコレクションを大成功させた後、2004年にエルメスのウィメンズデザイナーとして抜擢されました。
ゴルチエは、エルメスに声をかけられた時、“メゾンの古くからの世界観を守りつつ、自分の発想をブランドに落とし込むこと“に挑戦しようとして快諾しました。
デザイナーの第一歩としてピエール・カルダンのアシスタントをした時には、彼の明確なスタイリングに合致するように提案することを徹底していましたが、ここでは“自分の考えるエルメス像”を大切にしていたのだとか。
また、前任者である『マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)』は、ゴルチエのアシスタントとして働いた実績もあり、マルタン自身もゴルチエを師と仰いでいたそうで、後任をゴルチエが務めたことは、非常にドラマチックな出来事でした。
そんなゴルチエですが、エルメスでも高い評価を得ます。
ジプシエール 引用www.hermes.com
彼の手掛けたものの中でなくてはならないものが、『ジプシエール』という名のバッグ。
ショーのフィナーレでジプシエールをかけて登場するゴルチエ 引用vintage-paris.co.jp
実際にコレクションでも、ゴルチエ自身がジプシエールを身に着けて登場したこともあることで有名です。
エルメスのバッグではハンドバッグなど持ち手が短いバッグが主流でしたが、彼は斜め掛けでカジュアルに使用できるタイプを提案。
これは“メンズバーキン”と呼ばれるほど男性にも人気が高く、今では性別を超えて使用できるエルメスの人気バッグへと成長しました。
様々な業界とのクロスオーバー
映画業界との関わり
ゴルチエは映画業界でもその才能を発揮しています。
KIKA 引用gq.com
彼が初めて映画に衣装を提供したのは『キカ(KIKA)』というサイコ映画。
登場人物に血が飛び散ったようなデザインの印象的なドレスを身に着けさせることで、映画への絶妙なアクセントをプラスしました。
ロスト・チルドレン 引用goo.ne.jp
ほかにも、1996年に公開された『ロスト・チルドレン(La Cité des Enfants Perdus)』では、衣装全体をゴルチエが手掛けるほか、日本でも大ヒットした『フィフス・エレメント(Le Cinquième élément)』では、ボンテージルックの衣装を手配し、豪華キャストに1,000着以上の衣装をデザイン。
この時は、100人以上のエキストラ一人ひとりの衣装にも彼自身のチェックが入ったそうです。
ほかにも、日本では、宝塚歌劇団の花組公演『SPEAKEASY〜風の街の悪党たち』や星組公演『プラハの春』の衣装も手掛けています。
このように、映画やミュージカルの世界観を存分に発揮するためになくてはならない衣装協力をすることで、ゴルチエ自身が幼少期に憧れた“演劇”の世界に足を踏み入れることになっていったのです。
音楽業界との関わり
彼の残した功績は、ファッション・映画業界に留まりません。
音楽業界でも、数々のビッグアーティストに彼のデザインした衣装を提供してきました。
マドンナ 引用cahiersdemode.com
もっとも有名なのは、マドンナの『コーンブラ』。
1990年に行われたワールドツアーで、彼女のアイコンともいえるコーンブラや、それに合わせたピンストライプのセットアップも提案。
セクシーなイメージのブラジャーを円錐形でデザインすることで、“女性の体をガードする鎧のような存在”として表現。
これは男性らしさと女性らしさのコントラストが楽しめるもので、スタイリッシュなスタイリングとマドンナの作る世界観が唯一無二のものだと、非常に話題を呼びました。
マドンナへの衣装提供は長く続き、彼女のプロモーションビデオ『フローズン(Frozen)』でも彼女はゴルチエの手掛けた衣装を着用しています。
ゴルチエが手掛けたBOØWYの衣装 引用fromjapan.co.jp
音楽業界に彼のファンは多く、ロックアーティストの『マリリン・マンソン』、日本を代表するバンド『ボウイ(BOØWY)』に衣装提供を行ったり、『ジ アルフィー(THE ALFEE)』とはゴルチエのファッションショーを兼ねたツアーを催し、ツアー中のメンバー衣装はすべてジャンポールゴルチエで統一されたこともあります。
このように、音楽業界へも活躍の幅を広げたゴルチエ。
今までのトップデザイナーとは一線を画す彼の活躍に、世界中が魅了されていきました。
彼の半生を描くストーリーショー
奇抜で美しい衣装と繊細でダイナミックなダンスが見所の『ファッションフリークショー』引用fashionfreakshow.jp
そんなゴルチエですが、近年では自身の半生を描いたミュージカル『ファッションフリークショー』を世界中15か国で公演しました。
これは彼自身の幼少期の記憶やデザイナーとして成功をおさめるまでの裏側、また恋人との逢瀬や伝説のマドンナのコンサート衣装までもがミュージカル形式で語られ、原作・演出・200着以上の衣装を、すべて自分で手掛けたものです。
もともとミュージカルに興味のあった彼は、自身のブランドデザイナーを退いたあと、ファッションに区切りをつけてミュージカルを手掛けてみたいと考えました。
ですが、脚本家ではない彼が1から物語を創造することは難しく、そこで目をつけたのが“誰よりも一番詳しい、自分自身の物語”。
ファッションを通して自分自身を表現することを好んだ少年の物語に、自分の好きなファッションや振り付け、音楽を詰め込んだ彼の集大成になりました。
また、そのミュージカルの舞台裏を追ったドキュメンタリー映画『ジャンポール・ゴルチエのファッション狂想劇』も追ってお披露目。
魅力的なステージを作り上げるまでの裏側に2年間密着した映画で、ミュージカルで表現された彼の半生が、改めて本人の口から語られる貴重なものにもなっています。
そこでは、実際にパリコレを彩ったオートクチュールを纏うダンサーや、本番を迎えるまでの真剣なレッスン、ゴルチエのデザインを繊細に作り上げていく衣装スタッフの姿が映し出され、まさに“天才の創造の裏側”を垣間見ることのできる作品に仕上がっています。
ここまで読んでくださった方へ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
性別・人種・体型・ジャンルにとらわれず、純粋に美しいと思うものを表現し続け、数々の刺激と功績をファッション界に残したジャン=ポール・ゴルチエ。
彼のデザイナー人生は、寛大な両親、仕立て屋の祖母、愛する恋人、深い繋がりを持つ日本など、あらゆる存在があってこそのものでした。
ゴルチエのデザイナーとしての活動は終わりを告げましたが、彼の才能と作品は今後も根強く残り続けるでしょう。
KLDでもJean-Paul GAULTIERのお買取を強化しています。
インポートブランド、モードブランドの査定を得意とするスタッフの在籍により、高い精度での強気のお値付けが可能です。
宅配買取というと、
「時間かかるんじゃないの?」「面倒臭そう…」「配送料の分、買取金額を安くされそう…」
という不安をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
実はそんなことも無いんです。
KLDでは、取り扱いブランドをある程度絞ることにより、高い水準のお買取金額を維持。
もちろん送料、キャンセル料なども無料です!
LINE査定も出来ますので、もし気になるアイテムがございましたらお気軽にお声かけ下さい!
\ご登録はこちらからどうぞ/
ありがとうございました!
KLDの販売ページはこちら
こちらのページでKLDの商品を販売しています。
関連記事
こちらの記事もぜひご覧ください!